第2章 営林局から 第10話「五つの湖に女性の名を残す」
国有林の「事業図」は営林署ごとに作成され、地形や森林の現況が克明に記入されている。職員が山に入るとき、姿なき山案内として大切な役目を果たすものである。
かつては、営林局計画課の職員が、半年あまりも山の中にテントを張り、現地踏査をして事業図を作成したものであるが、そうした時、人跡未踏の地に踏み込み、図面上にない滝や沼、川にぶつかることがある。また、無名の山や川も至るところにあり、事業を行う上で、また、後々の目印として、どうしても名前を付けておかなければならない時がある。
そこで、現地の作業員や古老に聞いたりして、その土地や自然にふさわしい名前を考えるわけであるが、斜里営林署の306林班には、何故か「幸湖」「貞湖」「玲湖」「瑠美湖」「雪湖」と名が付いた小さな湖がある。
「さては、出張旅費を一晩で飲みきってしまう山男たち、馴染みの飲み屋の女性の名をつけたな」
と勘ぐって、当時から在局する計画課の古手に真相を聞いてみた。
以下、「私」とあるのは、これを話してくれた職員である。
昭和三十八年、経営計画編成のため、私ともう一人の職員、それに作業の三人で八月中旬から斜里営林署の山に入った。
ちょうど一ヶ月ほど過ぎたある日、「真鯉林道から入って、沢伝いに遠音別岳へと登り、頂上から山の状況を見よう」ということとなり、林道の終点から沢沿いに登り始めた。途中、渓流に何度も足を滑らせ、背丈以上もある笹をかき分けて進むこと二時間、目の前にアカエゾマツの群落が出現した。太さ六十センチ、樹高九メートル、曲がりくねった太い枝はオホーツク特有の樹形である。
更に一時間、緩やかな台地を東に進むが、登るにしたがって次第にハイマツが濃くなり、樹高五、六メートルのものが群生して行く手をさえぎる。幹をつたわりながら一歩一歩進むが、足取りが急に遅くなる。
「頂上アタックは無理だ。小高いところを見つけ、そこで下界を見通そう」
標高は既に九百メートルくらいまで登っており、図面上ではここから少し上にハイマツ林から突き出た大きな岩があるため、その岩から下を見ることとした。
雲一つない秋晴れ。前方遠くにはオホーツク海が見え、海岸近くには、斜里とウトロを行き交う車が土煙を上げ走っているのが見える。
足元近くに目を落とすと、図面にあるとおり、緩やかな台地の中に七つほどの湖とも沼とも言えるような水面が見える。
そのうち、誰からともなく「この湖には名前がない。考えてつけようか」
ということになった。しかし、三人で考えたが、いい名前が浮かんでこない。
「俺たちに文学的才能があるわけでなし、あまり深刻に考えず、気楽にいこう」
と私が言うと、待っていたかのように一人が
「どうだい、課の女性の名にしては」と言った。
そして、その後は
「あの湖は、形がいいから○○子ちゃんだ」とか
「なんとなく、おとなしく見えるから○○子ちゃんだ」
などケンケンガクガクの議論の末、「幸湖」「貞湖」「玲湖」「瑠美湖」「雪湖」と名前がついたのである。
以上が命名の模様である。一ヶ月以上も他の男の顔すら見ない彼らとすれば、この命名のひとときは、課の女性の顔がとても美人に思えたことであろう。
しかし、これではあまりに公式的である。何故、あの岩山の上で計画課の女性となったのか、その辺りの理由が不明確であるが、そのことに関して、彼は多くを語りたがらない。
オホーツク海を遠く見下ろす静かな台地の中にあって、この五つの湖は、今日もひっそりと佇んでいる。