第9章 心に残る話 第49話「掌の肉刺(まめ)」
「主任さん、そんな単価じゃ、かゆもすすれんがの」
「民有林じゃ、一日に米三合くれて、一石でこれだけ出すちゅう話さえありますぜ」
「長いこと官林でやってきたわしらじゃけぇ、そりゃ、他所へは行きとうないんじゃが・・・」
こじれにこじれた伐木造材の功程単価の決定を、「今日こそは決めたい」とたき火を囲んで延々と五時間も話し合ったが、堂々巡りで進展しない。
無理もないことである。何しろ、戦後のすさまじいインフレで、予定簿にのせた予算も、実行時期になると木寄せにすら足りなくなる。
長い重苦しい沈黙が、たき火を囲んだ皆の上にのしかかる。春遅い山峡も木の芽がふき、時折、山鳥のホロロが聞こえる。
「どうだろう、無理は百も承知だが、田んぼの仕事もそろそろ始まるし、それまでに斧入れだけはしてくれないか」
「・・・」
「役所に行って、単価を上げてもらうよう交渉してみるから、今日のところこれでどうかね」
「・・・」
「単価は確かに安いが、あんたらの腕なら二十四、五石は伐れるんだし、何とか日当になるよ」
「主任さんは軽うに二十四、五石は伐れると言いなさるが、かゆ腹じゃ、とてもとても」
「何だ何だ、二十年も先山で飯を食ったあんたらじゃないか。二十石ぐらい、俺でも伐れるぜ」
後から考えると、とんでもないことを言ったものである。
「そうかい、主任さんが二十石なら伐るとおっしゃるなら、いっぺん伐ってもらっちゃあどうだろうか」
その場限りの軽口のつもりであり、彼らも若い主任をからかうつもりであっただろうが、交渉の行き詰まりに業を煮やした私はついに言ってしまった。
「よっしゃ、あんたら明日付き合ってくれ」
翌朝早々に山へ登る。既に、昨日の連中が四人来て、土場で焚き火を囲んでいる。
「お早う」
「お早うス」
「今日は一つ、目にものを見せてやるから」
「途中で代われはないでしょうな」
口々に冷やかすのを聞き流して、タバコに火をつける。丸一日続くかどうか自信はないが、今さら後に引けない。
ヨキを片手にスギの根際に立って、梢を見上げる。大地にしっかりと根を下ろして百年もの霜雪をしのいできたスギの木の、何と堂々としていることか。伐倒方向を見きわめ、足場回りと待避場所のヤブを丹念に伐る。ヨキを振り下ろせ 「カーン」という快い響きが周囲の静寂を破りこだまする。切れ味は最高で、みるみる受け口が広まる。汗がしたたり落ちるが、ぬぐう間も惜しい。生きがいを感じる音である。
十分な受け口を入れ終わると、追い鋸を入れる。心地よい音とともに、ひと引きひと引き鋸が埋まっていく。
たき火を囲んでいた一人が、やおら腰から矢を出しては打ち込む。
「バキッ」
中腰で小ぜわしく鋸を使う。追い口が開き出す。鋸と矢を引き、最後のつるにヨキを入れて待避する。
徐々に傾く梢、日差しが急に開けては中空にぽっかりと穴があき
「ドドーン」
すさまじい響きを残してスギが倒れた。
一息入れて振り返ると、先程、矢を打ってくれた杣(そま)が、笑顔で、汗に曇った目に映る。もう一人の杣が頭巾を回してくれる。さすがに手つきも仕上がりもあざやかだ。
昼食をはさんで五本を倒し、玉伐りを終えたのは午後四時を回っていた。朝の元気はどこへやら、午後になると、ヨキを振る二の腕はなえる。掌には肉刺ができ、造材を終えた頃には立っているのもやっとである。
「主任さん、そこまでですぜ」
「ウン」
軽口をたたく元気もないが
「計ってみてくれ」
とまで言うと輪尺と野帳を放り出し、彼らが計っている間、残り火も尽きた焚き火のそばでぶっ倒れるように寝ころぶ。
どれ位の時間が経ったのだろうか。
「計りましたぜ」
と四つの顔が、寝ている私の顔をのぞき込む。
起き上がり、リュックから材積表を取り出し計算すると、二十一石余りとなった。
「手伝ってくれた分、多かったかな」
誰も答えない。それぞれ道具を片付けたり、焚き火の始末をしている。
「帰ろうか」
「そうしましょうや」
三キロ余りの帰り道。軌道の枕木が高く感じられ、何度もつまづく。その度に疲れがどっとわき起こるが、誰も一言もしゃべらない。ただ、黙々と歩くだけである。
その夜は、風呂から上がると夕食までの間、床框(とこかまち)に頭をのせては今日一日のことを考えていた。
「こんばんわ」
玄関に誰かが来たようだが、起き上がる元気もない。応対に出た妻が連れてきたのは、昼間の杣たちだった。どこで工面してきたのか、清酒一升とどぶろく二升を携えてきたのである。
あり合わせの夕食を囲んで酒宴が始まった。ヨキを振る腰つきがこうだった、と実演してみせては妻を抱腹させる者がいる。昼間の私の仕事ぶりが終始、酒の肴になる。山の単価がどうとはタブーのようにどちらも触れない。
一番、年老いた杣が、私の水ぶくれした掌を見ては妻に針と墨を持って来させ、丹念に木綿糸を使いながら、掌の激しく出来た肉刺に墨をいれてくれた。
酒の入った一同の話は尽きることなく、春の夜はふけていった。
起きていられなくなった私は、彼らに断ってその場に横になった。そのうち深い眠りに落ちたらしい。いつ寝床に入ったのか、彼らがいつ帰ったのを知らずに、翌朝を迎えた。
そして、痛む足に顔をしかめながら、いつもと同じく家の外に出たときだった。
「お早うす」
「お早う」
口々に声をかけて橋を渡り、杣たちが山に向かって行くではないか。
「ググッ」と胸にこみ上げてきて、目頭が熱くなった。
思わず彼らの後ろ姿に合掌したいような衝撃にかられ、何気なく手のひらを見た。入れ墨でまだら模様となった掌が霞み、涙で見えなくなった。
二十年余りも前、敗戦のショックと窮乏が人々の心をすさませていたとはいえ、世の中はまだギスギスしておらず、その頃の私は若かった。