第3章 営林署から 第18話「もしもし、ここの渓谷の植物は採ってはいけませんよ」
観光地を訪れる登山客、散策者は十人十色、千差万別である。
登山道にしゃがみ込み、可憐な草花をじっくり眺めては立ち去るマナーの良い人もいれば、ビニール袋を取り出しては「ちょっと失敬」と持ち去ろうとする人もいる。
本格的な盗掘行為はさておき、国有林野内を歩いていて、偶然、こうしたマナー違反を発見した場合、注意せざるを得ないのが担当区主任の役柄であるが、相手とのことを考えると、いささか気の重いところもある。特に、こちらが独身で相手が妙齢の御婦人となると、対応も一筋縄ではいかない。
(泣き落とし型)
「もしもし、ここの渓谷の植物は採ってはいけませんよ」
「すみません、知らなかったもので・・・」
「おかしいですね。あちこちに大きな標識があるはずですよ。お母さんがそんなことをしてもらっては困ります」
「どうも済みません。子供が欲しがったものですから」
「二度としないで下さいね」
「本当に済みません・・・。子供がどうしてもと言うものですから」
「・・・」
子供を前面に出し、やんわり来られると、なかなか次の言葉が出てこない。
(喧嘩腰型)
「もしもし、ここの渓谷の植物は採ってはいけませんよ」
「あら、一本ぐらい、いいじゃないの」
「あなた、一本ぐらいと言いますけどね、この山には年間二十万人の人たちが訪れるんですよ。そのうち半分の人がもし、あなたのように一本ぐらい採ったとしたら、一年に十万本もの植物がなくなるんですよ。よく考えて下さい」
「ここはあなたの山ではなくて、国民の山でしょう。ケチケチしないでよ」
「それはそうです。国民の山です。しかし、あなただけの山でもないんです。国民全体の財産です」
「いいわ、返せばいいんでしょう」
「そうよ、この人に、返してしまいましょう」
多勢に無勢。しかし、ここで負けてはいられない。
「返す、返さないの問題じゃなく、モラルの問題です」
「あなた、若いのに割合くどいのね。それじゃ結婚出来ないわよ」
「・・・」
そう言われては、もはや返す言葉がない。草花を黙って受け取り、あとは、ご婦人方がその場を離れてくれるのをひたすら待つしかない。残されたのは、手の中にある無造作に置かれた草花と、言いようもない空しさばかり。
(お色気型)
「もしもし、ここの渓谷の植物は採ってはいけませんよ」
「あら、すみません。でもこの草花、とっても可愛らしいんですもの」
上目遣いにニッコリして、もう一言。
「この花なんというのかしら、ご存じ?」
「ああ、これですか、ウチワダイモンジソウですよ」
「よくご存じね。もう少し欲しいわ」
「それなら向こうの岸壁に多いですよ。・・・あ、いけませんよ、これ以上採っては」
我も人の子。美人には弱い。
(高圧型)
「もしもし、ここの渓谷の植物は採ってはいけませんよ」
「こんなちっぽけな木の五、六本いいでしょう。大人げない。あなた、一体何者? 」
「私ですか。営林署の職員ですよ」
「営林署? そんなの聞いたことないわね。何やってるの? 」
「農林省の出先機関で、国有林の管理や経営をやっています。この遊歩道などの施設の管理も我々が行っています。ですから・・・」
無論、当方の説明など聞いてはいない。胡散臭い目でにらみつけながら
「今頃、外材だって入るのに、営林署なんてまだあるの。あなた、上手いこと言うけど、つまり山師でしょう」
やれやれ、山師とまで言われては・・・
こうしたマナー知らずのハイカーが、ひとたび下界に降りると、今度は攻守ところを変えて「自然破壊反対」と叫ぶのではないかと、いささか心配になってくる。
管内に観光地があると、人には「いいですね」とよく言われるが、他人には話せない観光地ならではの苦労もまた、別にあるのである。