昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第9章 心に残る話 第50話「星影のワルツ」

 友人というものは妙なことがきっかけで出来るもので、「あいつ変な野郎だな」と思っていて普段は口もきかなかった人でも、酒の取りもつ縁がきっかけで言葉を交わし、意気投合してしまったというようなことがよくある。

 しかし、結婚、転勤などにより、年齢を重ねる毎に行動範囲が次第と狭まり、そういう機会にだんだん縁遠くなってしまうことは、何となく淋しい。

 

 こうした中、養成研修普通科を受講することとなった。同じ立場である二十九人の仲間がいたから、相手にはこと欠かない。心いくまで飲み、心いくまで語り合うには十分だった。

 このような巡り会いは、この殺伐とした世の中では、今後二度とないと思う。

 地元の祭には、仲間と一緒にハッピをまとう鉢巻姿勇ましく、どしゃ降りの雨の中、神輿を担いで温泉街をもみ歩いた。景気づけの茶わん酒も手伝って、翌日はガラガラ声で散々だったが、バカ騒ぎのあとは親密度も一層深まった気がする。

 

 養成研修普通科の分散会は近所の旅館で行った。

 舎監の安斎さんは、

「将来も、良きにつき悪しきにつき、お互いに励まし合って更に友情を深めていってほしい」

とおっしゃっていたが、全員一致する気持ちであり、伝統ある普通科研修の精神でもあるような気がした。

 酒宴の最後に安斎さんを囲んで「星影のワルツ」を歌ったら、思わず目頭が熱くなった。

 この研修に参加させて頂いて、大変幸せであったとつくづく思う。

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第9章 心に残る話 第49話「掌の肉刺(まめ)」

「主任さん、そんな単価じゃ、かゆもすすれんがの」

「民有林じゃ、一日に米三合くれて、一石でこれだけ出すちゅう話さえありますぜ」

「長いこと官林でやってきたわしらじゃけぇ、そりゃ、他所へは行きとうないんじゃが・・・」

 こじれにこじれた伐木造材の功程単価の決定を、「今日こそは決めたい」とたき火を囲んで延々と五時間も話し合ったが、堂々巡りで進展しない。

 無理もないことである。何しろ、戦後のすさまじいインフレで、予定簿にのせた予算も、実行時期になると木寄せにすら足りなくなる。

長い重苦しい沈黙が、たき火を囲んだ皆の上にのしかかる。春遅い山峡も木の芽がふき、時折、山鳥のホロロが聞こえる。

「どうだろう、無理は百も承知だが、田んぼの仕事もそろそろ始まるし、それまでに斧入れだけはしてくれないか」

「・・・」

「役所に行って、単価を上げてもらうよう交渉してみるから、今日のところこれでどうかね」

「・・・」 

「単価は確かに安いが、あんたらの腕なら二十四、五石は伐れるんだし、何とか日当になるよ」

「主任さんは軽うに二十四、五石は伐れると言いなさるが、かゆ腹じゃ、とてもとても」

「何だ何だ、二十年も先山で飯を食ったあんたらじゃないか。二十石ぐらい、俺でも伐れるぜ」

後から考えると、とんでもないことを言ったものである。

「そうかい、主任さんが二十石なら伐るとおっしゃるなら、いっぺん伐ってもらっちゃあどうだろうか」

その場限りの軽口のつもりであり、彼らも若い主任をからかうつもりであっただろうが、交渉の行き詰まりに業を煮やした私はついに言ってしまった。

「よっしゃ、あんたら明日付き合ってくれ」

 翌朝早々に山へ登る。既に、昨日の連中が四人来て、土場で焚き火を囲んでいる。

「お早う」

「お早うス」

「今日は一つ、目にものを見せてやるから」

「途中で代われはないでしょうな」

 口々に冷やかすのを聞き流して、タバコに火をつける。丸一日続くかどうか自信はないが、今さら後に引けない。

 ヨキを片手にスギの根際に立って、梢を見上げる。大地にしっかりと根を下ろして百年もの霜雪をしのいできたスギの木の、何と堂々としていることか。伐倒方向を見きわめ、足場回りと待避場所のヤブを丹念に伐る。ヨキを振り下ろせ  「カーン」という快い響きが周囲の静寂を破りこだまする。切れ味は最高で、みるみる受け口が広まる。汗がしたたり落ちるが、ぬぐう間も惜しい。生きがいを感じる音である。

 十分な受け口を入れ終わると、追い鋸を入れる。心地よい音とともに、ひと引きひと引き鋸が埋まっていく。

 たき火を囲んでいた一人が、やおら腰から矢を出しては打ち込む。

「バキッ」

 中腰で小ぜわしく鋸を使う。追い口が開き出す。鋸と矢を引き、最後のつるにヨキを入れて待避する。

  徐々に傾く梢、日差しが急に開けては中空にぽっかりと穴があき

「ドドーン」

 すさまじい響きを残してスギが倒れた。

  一息入れて振り返ると、先程、矢を打ってくれた杣(そま)が、笑顔で、汗に曇った目に映る。もう一人の杣が頭巾を回してくれる。さすがに手つきも仕上がりもあざやかだ。

 昼食をはさんで五本を倒し、玉伐りを終えたのは午後四時を回っていた。朝の元気はどこへやら、午後になると、ヨキを振る二の腕はなえる。掌には肉刺ができ、造材を終えた頃には立っているのもやっとである。

「主任さん、そこまでですぜ」

「ウン」

 軽口をたたく元気もないが

「計ってみてくれ」

とまで言うと輪尺と野帳を放り出し、彼らが計っている間、残り火も尽きた焚き火のそばでぶっ倒れるように寝ころぶ。

 

どれ位の時間が経ったのだろうか。

「計りましたぜ」

 と四つの顔が、寝ている私の顔をのぞき込む。

 起き上がり、リュックから材積表を取り出し計算すると、二十一石余りとなった。

「手伝ってくれた分、多かったかな」

 誰も答えない。それぞれ道具を片付けたり、焚き火の始末をしている。

「帰ろうか」

「そうしましょうや」

 三キロ余りの帰り道。軌道の枕木が高く感じられ、何度もつまづく。その度に疲れがどっとわき起こるが、誰も一言もしゃべらない。ただ、黙々と歩くだけである。

 その夜は、風呂から上がると夕食までの間、床框(とこかまち)に頭をのせては今日一日のことを考えていた。

 

「こんばんわ」

玄関に誰かが来たようだが、起き上がる元気もない。応対に出た妻が連れてきたのは、昼間の杣たちだった。どこで工面してきたのか、清酒一升とどぶろく二升を携えてきたのである。

 あり合わせの夕食を囲んで酒宴が始まった。ヨキを振る腰つきがこうだった、と実演してみせては妻を抱腹させる者がいる。昼間の私の仕事ぶりが終始、酒の肴になる。山の単価がどうとはタブーのようにどちらも触れない。

 一番、年老いた杣が、私の水ぶくれした掌を見ては妻に針と墨を持って来させ、丹念に木綿糸を使いながら、掌の激しく出来た肉刺に墨をいれてくれた。

 

 酒の入った一同の話は尽きることなく、春の夜はふけていった。

 起きていられなくなった私は、彼らに断ってその場に横になった。そのうち深い眠りに落ちたらしい。いつ寝床に入ったのか、彼らがいつ帰ったのを知らずに、翌朝を迎えた。

 そして、痛む足に顔をしかめながら、いつもと同じく家の外に出たときだった。

 「お早うす」

「お早う」

 口々に声をかけて橋を渡り、杣たちが山に向かって行くではないか。

 「ググッ」と胸にこみ上げてきて、目頭が熱くなった。

 思わず彼らの後ろ姿に合掌したいような衝撃にかられ、何気なく手のひらを見た。入れ墨でまだら模様となった掌が霞み、涙で見えなくなった。

 

 二十年余りも前、敗戦のショックと窮乏が人々の心をすさませていたとはいえ、世の中はまだギスギスしておらず、その頃の私は若かった。

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第9章 心に残る話 第48話「一級精勤賞を受賞して」

明治改元の記念すべき年に一級精勤賞受賞者の一人に名を連ね、代表として答辞を述べること、身に余る光栄である。

 もう四十年も経たのであろうか、と余りにも短く感じられ、過ぎし日を振り返る。

 

時の担当区さんから、試験林の伐採方法が悪いとえらく叱られたことや、軍用材の流送中、豪雨による増水で何キロもの下流まで流木を探し回ったこと。

 また、食糧がないので、実家から書籍として餅を送ってもらったことや、更には、届いたこんにゃくイモをもとに皆でこんにゃく作りをしたことなど、色々な出来事を思い出すが、幸いにして健康に恵まれ、何の事故もなく過ごせたことにあらためて深く感謝している。

 

 十三歳の時に父が急死し、その後、母の手で育った数年間、家の事業のせいもあって借金が急激に嵩んだ。幸い、四百立方メートルあったスギ林を売り払い、我が家の経済危機を切り抜けたことから、山林の有り難さは身にしみている。        

 ある署長が三惚れとして

「自分の職に惚れろ」

「自分の女房に惚れろ」

「自分の任地に惚れろ」

と説かれたことを記憶しているが、三惚れに徹して感謝の日々を送れることは、営林署に勤めたことがその因をなしていると思う。

 

「まごごろをもって事に当たる」をモットーにして全力を尽くしてきたつもりであるが、時には曲解され、恨まれることもあった。しかし、いつかは分かってもらえる。

 平凡であるが、まごころをもって事に当たって行きたいと思う。

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第9章 心に残る話 第47話「東京便り」

 知床の山奥から東京に出てきて、はや二年三ヶ月がたちました。ようやく仕事に慣れ、生活に慣れ、自分のペースで進むことが出来るようになりました。

 しかし、北海道に生まれ十勝に育った僕には、帯広の水が一番適しているかも知れません。今でも一人になると、思い出すのは中標津の山や標津川です。

 

 勉学交流制度というものを知り、受験のため上京しましたが、この時は全く自信がなく、東京見物もたまにはいいだろうと軽い気持ちでいました。

 試験も終わり、実家に帰っていたところ、かすかな期待が当たって合格通知が届きました。

 幸運も重なり、その年は希望者が一名だったので、無競争で内示をもらい、上京する運びとなりました。

 

 当時、問題となっていたスモッグと自動車の騒音は、聞きしに勝るものでした。快晴といっても、僕には薄曇りの空にしか見えないし、鼻毛がとにかく邪魔になるほどよく伸びます。北海道の寒さだと凍って大変だと思います。

 音の方も強烈で、自動車からパトカー、地下鉄工事、飛行機と音色もさまざまなものがあり、神経質な人だったらノイローゼになりそうです。

 悪いことに、我々独身が住む若葉寮は「夜霧の第二京浜」で有名な国道一号線の傍にあり、小高い所の五階建てなので、音の弾丸が機関銃のように飛び込んで来ます。

 

 東京の特徴は、地方出身者が多いことです。

 寮生は六十四、五名ですが、僕の知っている限り、江戸っ子は一人もいません。まったく意味の分からない方言で話されることもしばしばで、東京は地方文化の集大成のような気がします。

 

 砂漠のような東京に住むものにとって、同年輩、同性の親友を持つことは、オアシスを持つことと同様に重要です。

 教養を深め、見聞を広くするための勉学交流生も近頃は少なくなり、来年は一人になりそうですが、現在、帯広で埋もれている若い有能な人材がより多く東京に出てくることを希望します。

 とりとめもないことを書きましたが、東京便りといたします。 

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第9章 心に残る話 第46話「外野席から」

 昔から、「山官」という言葉があった。

 誰がつけたか知らないが、山を守り木を育てる者の純朴な、また一歩ずつ踏みしめて行く地道さを端的に表した親しむべき愛称である。

 山へ行けば空気もうまいし水も清らかで、本当に身も心も洗い清められる。この清純な環境はすべての人のあこがれであり、自然を愛することは人間の本能的な欲望でもある。

 

私どもが駆けだしの頃は

「木と話が出来なければ一丁前の山官とは言えない」

とハッパをかけられ、また、その通りに努力したものである。

「人間社会の複雑さに災いされず、山官になった我々こそ最も幸せだ」

と自惚れていたのも昔の夢物語となった。

 

 されど、純朴だけが全てではなかった。

あくまでも国有林を管理経営する技術者であるというプライドを持ち、その枠の中で精一杯働き回っていた。

 精魂を打ち込むとともに、めったなことで他人からとやかく言われないよう、肩で風を切って歩くだけの気概を持っていたものである。

昔は就業一筋に、技術を中心として毎日を過ごしてきた。

 したがって、そこには野心も小細工もなく、政治的配慮も極力避け、一途に前進したものである。

 今日のように、前進しているのか後進しているのか分からない、というような誹りを受けなかったのは事実であり、現役の方々も今一度、足元を見直してほしい。

 

また、どこの職場に行ってもあまりにも会議と研修の積み重ねで、事務所には人が一杯いるが、肝心の事業所や現場では閑古鳥が鳴いているような気がしてならない。

 資源的にも、技術的にも恵まれているせいか、一部の人を除いてはあまり力を出し切っていないようにも見受けられる。

 近頃は老眼鏡を愛用するようになったので、視野も狭くピントも外れていると思うが、歯に衣着せぬまま述べさせて頂いた。

 

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第9章 心に残る話 第45話「白髪のモッコス老人」

 私が署長として着任して間もないある日のこと。この地の篤林家で一徹ものと知られる老人から電話を受けた。

 「署長さん、横道峠の造林地には、カヅラが巻き付いたままで二、三年放置されている所があるが、あれでは木がかわいそうだ。なんとかしてくれ」

 

 意外な忠告である。

「立木を払い下げてくれ」とか

「工事をやらせてくれ」

「山の木で陰になるので、伐ってくれ」といった、自分のためにする陳情や意見はよく聞かされたものであるが、

「木がかわいそうだから」

という陳情は普通、聞かない。

 

  私は早速、担当区主任に連絡をとったが、「予算の関係で予定にはない」とのことである。

 そこで、私は、この箇所を追加実行することによる金額と面積を聞き、予算措置はあとで行うので、明日からでも実行するよう担当区に指示をした。

 

 数日後、白髪のこの老人は、和服、白足袋、草履履きの特徴ある姿で署にやって来て 

「前からあの山のことは署長さんに連絡していたが、どの署長さんも『予算がない』といってやってくれなかった。貴男は電話ひとつで直ぐやってくれ、山の木も喜んでいることだろう。本当に良かった」

 この篤林家の山が何かの利益を得たが如く、老人は喜んでくれたのである。

 

 このことがあってから、この篤林家とは意気投合し、老人が材木屋との交渉で行き詰まると私が仲介を申し出たり、逆に、地元と署との間にトラブルが生じると、老人に頼んでは解決してもらったりした。

 横道峠の造林地も、今では太く伸び続けているであろう。

 今は亡き白髪のモッコス老人にあの山を見せては、薩摩名産の焼酎でも飲み交わしたいと思う。

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第9章 心に残る話 第44話「山のことわざ」

一本切って百本植えよ

 一本の木を切ったら、お返しに百本の苗木を植えるほどの気構えで植林に励めという意味であろうが、それでは前進がないので、一本切って収入をあげたら、新たに土地を求めて百本植林せよという、積極的な造林投資とも読むことが出来る。

 

山の肥料はワラジ

 古いワラジを埋め込んで肥料にする訳ではない。こまめに山を見回って、つるを外したり、傾いていたら起こしたりといった緻密な保育が、肥料をやるほどに効果を発揮するのである。

 

山は長者のヒゲ

 山はお金持ちの自慢の種という意味ではない。山林は利回りが悪く、経済的には大した価値がない。言うなれば長者のヒゲのようなものだという意味である。大阪地方には「山三分」というたとえがあり、これも、山の利回りは年三分程度で、あまり有利ではないという意味である。

 

土二文 木八文

 農山村では、木のない山の経済価値はきわめて低い。一般には、木の価格はもっと高い比率を示すであろうが、木のない山は、山にして山でないといったところであろう。

 

水一升 木一升

 水は植物の生育に重要なことから、「土一升 金一升」に語呂をあわせて作られた言葉である。

 

翁遊ばしても 山遊ばすな

 老人を無理に働かせなくても大した支障はないが、山は切ったまま遊ばせておくのは大変無駄であり、直ぐに造林せよという意味である。個人経営の面からも、国家的見地からも損失である。

 

間伐は 外を切らずに中を切れ

 間伐直後、暴風にあっても著しい被害が生じないよう、林縁の二、三列は間伐も枝打ちもしないということである。

 

植える馬鹿 見る馬鹿 伐る馬鹿 馬鹿三代で山一代

 自分の代には何ら収益を望めないのに植林に努めた初代、植林もせず伐りもせずにただ眺めて暮らした二代目、育てた木を伐ってしまった三代目。どれも余り利口な人とは言えない。しかし、このような馬鹿が三代そろって、はじめて一代の木材生産が完了する。初代が山以外に投資し、二代目が未熟材を伐採したら、そこまでの話である。なるほど馬鹿三代かも知れぬが、林業生産の立場から言えば、最も賞賛すべき、偉大なる馬鹿三代だと言える。

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第9章 心に残る話 第43話「俳句と短歌」

下刈の 夏帽並ぶ 大斜面

 

   太陽の日差しと草いきれ。緑の大斜面に、点となる白い日よけが一幅の絵となる。

 

山下りて 夏めく娘らの 胸豊か

 

   私のところの女子作業員も、あと三年も山で働く頃には第二の人生に出発する。娘たちとの別れは辛いが、幸あれと祝いたい。

 

女教師の 鍬振り上げて 植樹祭

 

   植林という作業を間近に感じ、実感を児童たちに教える努力には頭が下がる。

 

蕗伐るや 山刀(たしろ)滴る 蕗の水

   

   山官ならでは表現出来ない情景を、大胆にキャッチしている。

 

輪尺を しばし休ませ 解く雪輪

  

   雪の上の焚き火を囲んで食事をとるのであろう。

 

山官の 妻を望みて 嫁ぎくる 君は美林に まさる人なり

   

   結婚前に頂いた恋文に記されてありました。

 

団交を 終えて出づれば 天の川

   

   激動の一時期を、非力ながらもベストを尽くしたつもりである。

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第9章 心に残る話 第42話「担当区小唄」

春は嬉しや

野にも山にも 若葉が萌える

燃やしちゃならない 国の山

山火巡視で 西東

チョイト オートバイでぶっとばせ ヒヤヒヤ

 

夏は嬉しや

造林事業は 直営に請負

可愛いエンジン ひびかせて

植付 下刈 地拵

チョイト 緑の山になれ ヒヤヒヤ

 

秋は嬉しや

コンパス片手に 境界巡検

香るマイタケ ブドーにコクワ

背(せな)のリュックも だてじゃない

チョイト もみじが散りかかる ヒヤヒヤ

 

冬は嬉しや

収穫調査は 堅雪踏んで

極印打つ音 こだまする

部内踏査は 山スキー

チョイト 樹氷の花が咲く ヒヤヒヤ

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第9章 心に残る話 第41話「収穫調査」

初霜の林道にエンジンの音が高鳴り

旋転する厚い敷砂利に

重心を失うまいと懸命にバイクを操る

 

山裾は末枯れ

色づいた木の間に

見え隠れする先兵の保安帽は幾筋か

 

 

あと幾日この地へ歩を運ぶのか

冷気漂う小暗い小径で

息絶え絶えにそんなことどもを語る

 

山脚の草木を命の綱として

最後の沢の深淵を迂回し

なおも笹の密生地を突き進む

 

ひらひらと舞うホオの葉

滴る露と吹き出る汗を拭いつつ

眉を寄せて作業の段取りを認め合う

 

ハナイタヤの色に放心するもの束の間

「さあ、ゴーだ」

清らかな木漏れ日にきらりと輪尺が光る

 

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第9章 心に残る話 第40話「親孝行」

「今から山に行ってくる」と言うと、母が

「水筒と握り飯を持ってゆけ」と言う

「近いあの山ですよ」と指さして言うが

どうしても持ってゆけという

 

ちょうど居合わせた兄が

「親孝行だ、持ってゆけ」と小さな声で言うので

それではと、握り飯と水筒を持って出かけた

そうして、私は無事に、まだ明るいうちに戻ってきた

 

母が「どうだった」と、居間から出てきて

安心した顔で話しかけた

それで「大変助かりました」と言うと、とても喜んで

「今後も握り飯と水筒は持ってゆけ」と言った

 

母が居間に戻って行ったとき

兄が「お前は親孝行したよ」と言ったとき        

私は、何故となく涙があふれた

この兄は二十いくつかで死んだ

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第8章 特別編 第39話「苫前羆(ひぐま)事件(二)」

 この巨熊による被害は、僅か二日の間で死者六名、重傷三名となり、北海道史最大の獣害となった。

 苫前村は隣接各村長に救護隊の要請を行うとともに、羽幌警察署や御料局羽幌出張所に動員を依頼した。十二日には本部を編成、延べ二百七十人、鉄砲六十丁が集められた。

 しかし、クマは開拓地付近の山林に数カ所かくれ場を持ち、東に攻めれば西に逃げ、西を攻めれば東に回る、といった有様で手の下しようがなかった。

 そして、クマの出没来襲に定理のないことを知らされた彼らが新たに心配し始めたことは、この好天が崩れた場合、ますますクマの発見が困難となり、場合によってはこのまま冬眠されてしまうということだった。

 このため、討伐隊は、ここ一両日中に決着をつけねばならなかった。

 

 本部では、これまでのクマの習性、執拗さなどから喰い残しを必ず探し求めに来ると判断。やむを得ない措置として、遺骸を囮として誘い出す方法を用いることとし、十二日の夕刻から明景の家で張り込むこととなった。

 遺体を床の中央に集積し、その上部に頑丈な梁を設け、夕方からまず六人が乗り込んだ。

待つことしばしば、果たせるかな、どこからともなく接近してきたクマは二度、三度家の周囲を巡り始めたので、あわや発砲せんとしたところ、たちまち家の壁の陰へと回り込み、ついに発砲の機はつかめなかった。

 内部の異常な様子を感じ取ったクマは、見事この罠をもすっぽかしたのである。なんという鋭敏な洞察力であろうか。

 

 翌十三日は、日の明るいうちはクマの出没もなく、討伐隊も、一挙に山狩りをするしかないとの見方を強めてきた。

 しかしながら、クマは、こうした動きを嘲笑うかのように、夕方になると避難して空き家となった農家を次々と襲い、身欠き鰊や鰊漬け、雑穀類を喰い荒らし、また、ニワトリを手当たり次第喰い殺した。

 その上、夜具、衣類、家具に至るまで破壊の限りを尽くし、八軒中六軒までが寝間を打ち破られた。

 そして、同じ日の夜遅く、クマは暗黒の谷間を下り、討伐本部がある本流付近にまで到達した。

 一方、隊員の合い言葉は、いかなる場合であってもクマに本流を渡らせぬということであった。万が一にも、この広い原野にクマが渡れば図り知れない災害が予測されたからである。

 

 この晩、本部の見張り数人が、向こう岸に僅かに動めく黒い塊を見つけた。

 十数人の隊員が駆けつけ、緊張して見守るうちに、今度は芝を敷き連ねた仮橋を踏む異様な物音が聞こえて来たので、人間ではないことがはっきりとしてきた。

 羽幌分署長が「人か、クマか」と鋭く三度質したが、何の返事もないので、十数丁の鉄砲が一斉に火を吹いた。

 この瞬間、黒い塊は河岸をひとっ飛びにし、もと来た雪原に姿を消した。月明かりに見えたのは走り去る雪煙りのみで、その早業に並みいる者はみな舌を巻いた。

 

 十四日は早朝から好天となった。彼らは夜の白むのを待ちきれずに対岸に行ってみると、雪上にはクマの足跡と血痕数滴が散らばり、昨夜の被弾が確認された。そして、足跡を辿るにつれ、やや千鳥足の跡となっていることが分かり、一同はますます元気づけられた。

クマは二キロほど歩き、辻の沢付近から方向を変えて尾根沿いに国有林を駆け上がっていた。いよいよクマの近いことを見抜いた一行のうち十数人の射手が遠巻きに包囲した。その中には、鉄砲打ちでは天塩国にこの人ありと噂された山本兵吉も交じっていた。

 彼は、雪上を苦悶するクマを山頂からいち早く見つけ、二十メートルほど接近し、ニレの木に身を寄せた。クマはナラの大木の幹に支えられるようにして、山裾の討伐隊を睨み据えていた。

 クマは山本には気づかなかったので、彼は、頃よしとばかり怒りの初弾を見舞ったところ、ものの見事に命中、クマは大きくのけぞりざまドンと倒れた。

 これを見た山裾の隊員たちが思わず万歳を叫ぶと、死んだと見えたクマが再び立ち上がり、大音声を発し山本を睨みすえた。

 付近のマタギがあわてて銃を構えたが、山本の発する第二弾がいち早く巨体を打ち抜き、さしもの魔獣もばったり倒れ、口から血を吐き、ほどなく命を絶った。

 銃声の残響が木々の間をこだまする中、隊員たちが続々と集まり、すでに息絶えた魔獣を囲み、驚喜の歓声を上げた。

 このクマは黒褐色のオスで、身の丈二メートル七十、体重三百四十キロに及び、胸間から背にかけ袈娑掛の大白班を交えた見事なものであった。

 午前十時頃、数人の若者たちによって、クマは、二百メートルほど下の道路までシバ橇で引き出された。

 

 引き出してほどなく、一天にわかにかき曇り、一寸先も見えぬ大暴風雪となった。  

 この嵐は苫前村を中心に西海岸一帯に及び、同日夕刻に至るまで寸時も止むことなく終日、荒れ狂った。風速は四十メートルとも五十メートルともいわれ、林は揺らぎ莫大な被害を出し、海も大時化となって、家屋倒壊などの大被害を出すに至った。

 人々はこれを熊風と呼び、後世まで長く語り伝えられることとなった。

 これはクマの暴挙が天の怒りに触れ、その昇天を拒んだためと取り沙汰されているが、一説には、クマの怒りが嵐を呼んだものとも言われている。

 十二月十四日は、古老によると例年、不思議と天候が良くないそうである。

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第8章 特別編 第39話「苫前羆(ひぐま)事件(一)」

 この事件は、大正四年十一月九日と十日の両日、北海道の開拓部落に突如として起こったもので、我が国最大の獣害であり、羆による殺傷事件として道民を震撼せしめた大惨事である。

 事件が起きた場所は、苫前郡苫前村の三毛別(さんもうべつ)御料農地新区画開拓部落、通称六線沢と呼ばれるところで、当時、北海道の中でも特に開発が遅れていると言われていた。

 

 はじめに被害を受けたのは太田の家。主人三郎と妻のマユ、知人からの預かり子である幹雄、住み込み作業中の要吉の四人が暮らしていた。三郎は朝から部落の仕事に、要吉は裏山に磯舟のシキ削りに出かけ、家には妻と子供が残っていた。

十二時ごろ、要吉がいつものように昼飯に家に帰ると、人の気配はなく、囲炉裏の片隅に幹雄がうつぶせたまま座り込み、動かないでいた。名を呼んでみたが返事がないので、要吉は幹雄の肩に手をかけてゆり動かして見たところ、少年の顔下に流れ出た血が固まって盛り上がり、しかも喉の一部が鋭くえぐり取られ、既に息絶えていた。

 土間には小豆が一面に散乱、まだなま暖かい馬鈴薯二つ三つが炉端に転がっていた。驚いた要吉はマユを探して呼んだが声もなく、薄暗い部屋には不気味な空気が漂うだけであった。

 要吉から事態を知らされた男衆が太田の家に着き、クマの仕業であることや、妻のマユが連れ去られたことが明らかになった。

 巨熊は、窓から囲炉裏端へと侵入し、子供を一撃のもと撲殺し、更に、逃げる妻を寝間に追いつめ、食害した上で、遺体を林内に運び去ったのである。

 雪国の日は短く、午後三時ともなればすでに山の日も傾き薄暗くなる。

 集まった男衆は、二軒隣の明景の家へと避難し、夜明けを待つこととした。

 

 この日集まった捜索隊は、遺体を探すために、午前九時頃林内に足跡を追った。

 新雪のため歩行は困難を極めたが、百五十メートルほど進んだ時、小高い小峰にそびえるトドマツの傍らから突然、巨熊が躍り出た。

 驚いた一行は一斉射撃を浴びせた。

不思議にも三丁が不発、僅かに一丁が発火しただけであったが、その一発が空を切った途端、巨熊は猛然と彼らに立ち向かい、逃げ遅れた二人は危うく一撃を打ちのめされんばかりとなった。

 この時、河端は長柄の鎌を渾身の力で振り回し、宮本は不発の鉄砲を据え、しばしクマと対峙した。他はまるでクモの子を散らしたように逃げ去ってしまった。

 ところが意外なことに、巨熊はやおら方向転換すると、山に向かって走り去ってしまった。 

 命からがら逃げのびた彼らは驚きが極に達し、口もきけない状態であったが、さりとてこのまま過ごすことも出来ず、決死の若者を改めて募ると、再度、先ほど巨熊と遭遇したトドマツ林に向かった。そして、その場でマユの遺体を発見する。

 

 クマは獲物があるうちは付近を去らない習性があるので、その晩の太田家では、通夜の人たちも鉄砲などの武器を用意して充分警戒していた。

 通夜も一段落つき、幹雄の母が持参した酒を部落民に差していたその時、つまり夜八時半ごろであろうか、突然、巨熊が遺骸を祭った寝間の壁板を打ち破り、ぬっと立ち上がった。正に恐れていた予感が的中した瞬間であり、獲物を奪われたクマが復讐に来たのである。

 このあおりでたちまちランプが消え、室内は暗闇と化し、黒い固まりが大きく立ちはだかった。とっさの出来事に肝を潰した者たちは、クマがどこを睨んでいるのか見当もつかず思わず悲鳴を上げ、いち早く外に逃れた中川が大声を出しながら石油缶を打ち鳴らした。

 逃げ遅れた者たちは、便所に隠れ、屋根裏に駆けのぼった。

 クマは、家の騒ぎに逆に驚き、夜陰に姿を消してしまった。

 

 しかし、これで巨熊の襲撃は終わることはなかった。

 しばらくして、今度は、川下に激しい悲鳴と叫び声が深閑とする森に響きわたった。一晩に四人が殺され、三人が重傷を負うという史上最悪の悲劇が太田家から二軒隣の明景の家で起きたのである。

 この日、比較的安全と見られていた明景の家は、女、子供の避難所にあてられていた。

 主人の安太郎はもともと所用があり不在で、妻のヤヨと男児四人、女児二人、斎藤の家から妻のタケと男児二人、それと要吉の十人が居合わせており、追って今夜、二十名ほどが明景の家に分宿警戒に当たる予定であった。

 「火を絶やすなや、どんどん燃やすんだ」

 要吉は子供たちを励ました。

 「火を見せればどんなクマでも逃げてしまう」という教訓が、開拓初めから彼らにしみ込んでいたのである。ヤヨは今宵自宅に集まる救急隊員の夜食準備に取りかかり、タケは団子づくりに余念がなかった。

 突然、居間のあたりに激しい物音がして、それと前後して窓を凄まじい勢いで打ち破り、囲炉裏を飛び越え、クマが崩れ込んで来た。

 この騒ぎで大鍋がひっくり返り、焚き火が蹴散らされ、ランプは消え、たちまち部屋は真っ暗闇になった。

 クマは、外へ逃れようとする親子三人を居間に引きづり戻しては次々と噛みつき、その後、物陰に上半身を隠していた要吉に猛然と襲いかかると腰のあたりを激しく噛みついた。そして、要吉の絶叫に手を離したクマは、恐怖に泣け叫ぶ子供たちを襲うべく、再び部屋に戻った。

 一方、クマの襲撃から逃れた重傷のヤヨは、隣の中川の家にたどり着き、救いを求めた。

 すぐさま 五十人余りの救急隊が明景の家を取り囲んだ。しかしながら、誰一人として家に踏み込むことが出来なかった。

生存者皆無という断定から、救援隊は家を焼き払うか一斉射撃かで意見が対立したが、この時、ただ一人頑強に、この両説に反対しつづけたのが母親ヤヨであった。万一生存者がいることを心ひそかに願い、男たちを説き伏せたのである。

 とかくするうちに、屋内からの叫びも絶え、時折思い出したように救いを求めるうわごと、クマの足音のみとなってしまった。

 

 救援隊は、家の周囲に布陣を敷き終えると、夜空に二弾放った。

 クマはほとんど同時に猛然と屋外に飛び出し、入口近くに居合わせた者の前に大きくたち上がると、意外にも踵を返し、暗闇へと姿を消した。クマの動きが家の軒下沿いであったため、救援隊は屋内に生存するかも知れない子供たちに弾が当たることを恐れ、発砲することが出来なかった。

 奇跡的というべきか、幸いにして二児が無傷で救出された。

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第7章 あの頃の思い出 第38話「忘れた方は思い出して下さい」

北畠八穂作詞 青森営林局の歌

 

一 大地の愛は 木と生えて  

  東洋日本 みどり島

  本州北端 ヒバとマツ

  美き青き森 いとなめる

    おお 青森営林局

 

二 冬雪深き 北なれば

  げき寒 人にわきおこす

  誠実の熱 樹に注ぎ

  苦難からさえ 宝なす

    おお 青森営林局

 

三 一粒の種 芽ぐみしを

  光と土と うるおいの

  自然の愛に わが愛を 

  そえ茂らせん 大樹林

    おお 青森営林局

 

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第7章 あの頃の思い出 第37話「千島森林誌をつくって」

 もう十年前にもなるだろうか。秋田出身で社会党闘志だった故人の川俟清音さんが、私の書いた「千島森林誌」を国会で取り上げた。

「千島は、権威ある農林省の帯広営林局がつくった『千島森林誌』によれば、れっきとした国有財産ではないか。総理はこの事実をどう認識されてるのか」と川俟氏は喰い下がり、危うく政府参考人として国会へ呼び出されるのではないかと胸を痛めたことが、ほろ苦く思い出される。

 

「千島の国有林に取り組んでくれないか。年が経つとともに、資料や島を知っている老人たちもいなくなるし、戦後十年、もうそろそろ記録の限界に来ている。帯広営林局がやらなければ、この国家的事業はダメになる」

 ある日、当時の伊藤局長に呼ばれ、このように言われた。

 考えてみれば私も若かったし、燃えやすい性分なので

「よし、いま俺がやらなけりゃ、誰がやるんだ」

と妙な侠気にかられた。

 当時、根室周辺には島から引き上げてきた人が沢山いたし、足と対話でまとめる以外に方法がないので、根室営林署にわが身を移すこととなった。

 

 戦前の千島は一大軍事基地だったため、すべてがベールに包まれていた。まったく一人で書き綴った「千島森林誌」を本棚からひっぱり出しソッと開いてみると、私はこのように書いている。

 

「道内はじめ全国には、千島返還運動に関する多くの団体があって、長い年月と豊富な陣容でパンフレットを出しているが、すでに資料的限界が感じられていた。

また、ソ連占領軍により終戦を迎えたことや、戦前は軍事基地であったため関係書類や写真の持ち出しは厳重な検閲を受け、資料自体がもともと寡少であったこと、北海道唯一の書類保管場所であった道庁でも、終戦直後、機密文書として公然と焼却してしまったことなどから、千島の森林を集録することの難しさは十二分に知っていた。

 言うまでもなく、この種の大記録となると、何といってもしっかりとした青写真が必要であるが、その青写真が作れないところに大きな悩みがあった。ペンを握りはじめの頃はほとんど基礎資料もなく、火事場の焼けている材で家を建てるような悪戦苦闘ぶりで、片手で足や耳を頼りに資料探しを行い、片手でペンを握って整理する。しかも、苦労して書き上げたものが、その後見いだされた一片の資料によって、メラメラ燃えて灰になってしまうといった繰り返しの作業となり、たえず空虚や焦燥、 孤独感に襲われた。

 営林署の庶務課長というポストにあって、退庁後や休日を利用しての調査や執筆は、あらかじめ完成予定日を指示されていただけに実に苦しかった。何回か著作したが、こんなに歯をくいしばったことはなかった。こんなに時間がほしいと思ったこともなかった。結局、千島の森林を包んでいるボリュームの前に、か弱い人間一人の知恵が翻弄されたというに尽きる。」

 千島の陸地百万ヘクタールは、ほとんど全部と言ってもいいほど国有林で、国後、紗那(しゃな)、根室の三営林区署で管理していた。千島国有林の歩みがそのまま千島の歴史につながるのである。B5版三百四十四ページの中には、写真、図面約六十葉。北千島の占守(しゅむしゅ)島から色丹島に及ぶもので、これに林相図まで添付され、往時の模様を知ることが出来る。

たとえ今は異国の森林でも、あれから三十年近くの年輪を刻んで、いよいよ立派に成長していることだろう。

「国後の茶々山の裾野一帯は、戦前のミツマタの豊かな林相に似ていた。トドマツ・エゾマツは胸高直径一尺前後の一斉林で、優良林分では町歩当たり千石、普通でも七、八百石はあった」

と一人でうなずかれる北海林友の斎藤十郎さん。

「ルルイ付近ではエゾマツの十一石余のものがあり、また、造材したときに十二尺ものが八丁も採れた。秋田木材会社が十三年間、毎年五、六万石の造材を続けたが、飯場を移したのは三年間にわず か一回で、それも択伐作業の現場だった」

と担当区主任の思い出を語る局厚生課の松本秀男さん。

私にとって、極めて印象的だ。

 

 納沙布灯台から眺められる秋勇留(あきゆり)、水晶などの島は、そっくり飛行場にしたら良いほど何もない平坦な島で、奧に森林を抱える千島の前景としてはわびしい限りだ。

 そして、こんなイメージが、北方領土返還の呼びかけに対し、水産業関係がともすれば前に押し出されがちで、このことは、長い間林業人の誇りに生き抜いてきた私にとって、どうにも耐えられない次第である。

 北方領土返還に向け、千島の国有林についても、そのイメージアップに努めてほしいものである。

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