昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第9章 心に残る話 第50話「星影のワルツ」

 友人というものは妙なことがきっかけで出来るもので、「あいつ変な野郎だな」と思っていて普段は口もきかなかった人でも、酒の取りもつ縁がきっかけで言葉を交わし、意気投合してしまったというようなことがよくある。

 しかし、結婚、転勤などにより、年齢を重ねる毎に行動範囲が次第と狭まり、そういう機会にだんだん縁遠くなってしまうことは、何となく淋しい。

 

 こうした中、養成研修普通科を受講することとなった。同じ立場である二十九人の仲間がいたから、相手にはこと欠かない。心いくまで飲み、心いくまで語り合うには十分だった。

 このような巡り会いは、この殺伐とした世の中では、今後二度とないと思う。

 地元の祭には、仲間と一緒にハッピをまとう鉢巻姿勇ましく、どしゃ降りの雨の中、神輿を担いで温泉街をもみ歩いた。景気づけの茶わん酒も手伝って、翌日はガラガラ声で散々だったが、バカ騒ぎのあとは親密度も一層深まった気がする。

 

 養成研修普通科の分散会は近所の旅館で行った。

 舎監の安斎さんは、

「将来も、良きにつき悪しきにつき、お互いに励まし合って更に友情を深めていってほしい」

とおっしゃっていたが、全員一致する気持ちであり、伝統ある普通科研修の精神でもあるような気がした。

 酒宴の最後に安斎さんを囲んで「星影のワルツ」を歌ったら、思わず目頭が熱くなった。

 この研修に参加させて頂いて、大変幸せであったとつくづく思う。

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第9章 心に残る話 第49話「掌の肉刺(まめ)」

「主任さん、そんな単価じゃ、かゆもすすれんがの」

「民有林じゃ、一日に米三合くれて、一石でこれだけ出すちゅう話さえありますぜ」

「長いこと官林でやってきたわしらじゃけぇ、そりゃ、他所へは行きとうないんじゃが・・・」

 こじれにこじれた伐木造材の功程単価の決定を、「今日こそは決めたい」とたき火を囲んで延々と五時間も話し合ったが、堂々巡りで進展しない。

 無理もないことである。何しろ、戦後のすさまじいインフレで、予定簿にのせた予算も、実行時期になると木寄せにすら足りなくなる。

長い重苦しい沈黙が、たき火を囲んだ皆の上にのしかかる。春遅い山峡も木の芽がふき、時折、山鳥のホロロが聞こえる。

「どうだろう、無理は百も承知だが、田んぼの仕事もそろそろ始まるし、それまでに斧入れだけはしてくれないか」

「・・・」

「役所に行って、単価を上げてもらうよう交渉してみるから、今日のところこれでどうかね」

「・・・」 

「単価は確かに安いが、あんたらの腕なら二十四、五石は伐れるんだし、何とか日当になるよ」

「主任さんは軽うに二十四、五石は伐れると言いなさるが、かゆ腹じゃ、とてもとても」

「何だ何だ、二十年も先山で飯を食ったあんたらじゃないか。二十石ぐらい、俺でも伐れるぜ」

後から考えると、とんでもないことを言ったものである。

「そうかい、主任さんが二十石なら伐るとおっしゃるなら、いっぺん伐ってもらっちゃあどうだろうか」

その場限りの軽口のつもりであり、彼らも若い主任をからかうつもりであっただろうが、交渉の行き詰まりに業を煮やした私はついに言ってしまった。

「よっしゃ、あんたら明日付き合ってくれ」

 翌朝早々に山へ登る。既に、昨日の連中が四人来て、土場で焚き火を囲んでいる。

「お早う」

「お早うス」

「今日は一つ、目にものを見せてやるから」

「途中で代われはないでしょうな」

 口々に冷やかすのを聞き流して、タバコに火をつける。丸一日続くかどうか自信はないが、今さら後に引けない。

 ヨキを片手にスギの根際に立って、梢を見上げる。大地にしっかりと根を下ろして百年もの霜雪をしのいできたスギの木の、何と堂々としていることか。伐倒方向を見きわめ、足場回りと待避場所のヤブを丹念に伐る。ヨキを振り下ろせ  「カーン」という快い響きが周囲の静寂を破りこだまする。切れ味は最高で、みるみる受け口が広まる。汗がしたたり落ちるが、ぬぐう間も惜しい。生きがいを感じる音である。

 十分な受け口を入れ終わると、追い鋸を入れる。心地よい音とともに、ひと引きひと引き鋸が埋まっていく。

 たき火を囲んでいた一人が、やおら腰から矢を出しては打ち込む。

「バキッ」

 中腰で小ぜわしく鋸を使う。追い口が開き出す。鋸と矢を引き、最後のつるにヨキを入れて待避する。

  徐々に傾く梢、日差しが急に開けては中空にぽっかりと穴があき

「ドドーン」

 すさまじい響きを残してスギが倒れた。

  一息入れて振り返ると、先程、矢を打ってくれた杣(そま)が、笑顔で、汗に曇った目に映る。もう一人の杣が頭巾を回してくれる。さすがに手つきも仕上がりもあざやかだ。

 昼食をはさんで五本を倒し、玉伐りを終えたのは午後四時を回っていた。朝の元気はどこへやら、午後になると、ヨキを振る二の腕はなえる。掌には肉刺ができ、造材を終えた頃には立っているのもやっとである。

「主任さん、そこまでですぜ」

「ウン」

 軽口をたたく元気もないが

「計ってみてくれ」

とまで言うと輪尺と野帳を放り出し、彼らが計っている間、残り火も尽きた焚き火のそばでぶっ倒れるように寝ころぶ。

 

どれ位の時間が経ったのだろうか。

「計りましたぜ」

 と四つの顔が、寝ている私の顔をのぞき込む。

 起き上がり、リュックから材積表を取り出し計算すると、二十一石余りとなった。

「手伝ってくれた分、多かったかな」

 誰も答えない。それぞれ道具を片付けたり、焚き火の始末をしている。

「帰ろうか」

「そうしましょうや」

 三キロ余りの帰り道。軌道の枕木が高く感じられ、何度もつまづく。その度に疲れがどっとわき起こるが、誰も一言もしゃべらない。ただ、黙々と歩くだけである。

 その夜は、風呂から上がると夕食までの間、床框(とこかまち)に頭をのせては今日一日のことを考えていた。

 

「こんばんわ」

玄関に誰かが来たようだが、起き上がる元気もない。応対に出た妻が連れてきたのは、昼間の杣たちだった。どこで工面してきたのか、清酒一升とどぶろく二升を携えてきたのである。

 あり合わせの夕食を囲んで酒宴が始まった。ヨキを振る腰つきがこうだった、と実演してみせては妻を抱腹させる者がいる。昼間の私の仕事ぶりが終始、酒の肴になる。山の単価がどうとはタブーのようにどちらも触れない。

 一番、年老いた杣が、私の水ぶくれした掌を見ては妻に針と墨を持って来させ、丹念に木綿糸を使いながら、掌の激しく出来た肉刺に墨をいれてくれた。

 

 酒の入った一同の話は尽きることなく、春の夜はふけていった。

 起きていられなくなった私は、彼らに断ってその場に横になった。そのうち深い眠りに落ちたらしい。いつ寝床に入ったのか、彼らがいつ帰ったのを知らずに、翌朝を迎えた。

 そして、痛む足に顔をしかめながら、いつもと同じく家の外に出たときだった。

 「お早うす」

「お早う」

 口々に声をかけて橋を渡り、杣たちが山に向かって行くではないか。

 「ググッ」と胸にこみ上げてきて、目頭が熱くなった。

 思わず彼らの後ろ姿に合掌したいような衝撃にかられ、何気なく手のひらを見た。入れ墨でまだら模様となった掌が霞み、涙で見えなくなった。

 

 二十年余りも前、敗戦のショックと窮乏が人々の心をすさませていたとはいえ、世の中はまだギスギスしておらず、その頃の私は若かった。

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第9章 心に残る話 第48話「一級精勤賞を受賞して」

明治改元の記念すべき年に一級精勤賞受賞者の一人に名を連ね、代表として答辞を述べること、身に余る光栄である。

 もう四十年も経たのであろうか、と余りにも短く感じられ、過ぎし日を振り返る。

 

時の担当区さんから、試験林の伐採方法が悪いとえらく叱られたことや、軍用材の流送中、豪雨による増水で何キロもの下流まで流木を探し回ったこと。

 また、食糧がないので、実家から書籍として餅を送ってもらったことや、更には、届いたこんにゃくイモをもとに皆でこんにゃく作りをしたことなど、色々な出来事を思い出すが、幸いにして健康に恵まれ、何の事故もなく過ごせたことにあらためて深く感謝している。

 

 十三歳の時に父が急死し、その後、母の手で育った数年間、家の事業のせいもあって借金が急激に嵩んだ。幸い、四百立方メートルあったスギ林を売り払い、我が家の経済危機を切り抜けたことから、山林の有り難さは身にしみている。        

 ある署長が三惚れとして

「自分の職に惚れろ」

「自分の女房に惚れろ」

「自分の任地に惚れろ」

と説かれたことを記憶しているが、三惚れに徹して感謝の日々を送れることは、営林署に勤めたことがその因をなしていると思う。

 

「まごごろをもって事に当たる」をモットーにして全力を尽くしてきたつもりであるが、時には曲解され、恨まれることもあった。しかし、いつかは分かってもらえる。

 平凡であるが、まごころをもって事に当たって行きたいと思う。

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第9章 心に残る話 第47話「東京便り」

 知床の山奥から東京に出てきて、はや二年三ヶ月がたちました。ようやく仕事に慣れ、生活に慣れ、自分のペースで進むことが出来るようになりました。

 しかし、北海道に生まれ十勝に育った僕には、帯広の水が一番適しているかも知れません。今でも一人になると、思い出すのは中標津の山や標津川です。

 

 勉学交流制度というものを知り、受験のため上京しましたが、この時は全く自信がなく、東京見物もたまにはいいだろうと軽い気持ちでいました。

 試験も終わり、実家に帰っていたところ、かすかな期待が当たって合格通知が届きました。

 幸運も重なり、その年は希望者が一名だったので、無競争で内示をもらい、上京する運びとなりました。

 

 当時、問題となっていたスモッグと自動車の騒音は、聞きしに勝るものでした。快晴といっても、僕には薄曇りの空にしか見えないし、鼻毛がとにかく邪魔になるほどよく伸びます。北海道の寒さだと凍って大変だと思います。

 音の方も強烈で、自動車からパトカー、地下鉄工事、飛行機と音色もさまざまなものがあり、神経質な人だったらノイローゼになりそうです。

 悪いことに、我々独身が住む若葉寮は「夜霧の第二京浜」で有名な国道一号線の傍にあり、小高い所の五階建てなので、音の弾丸が機関銃のように飛び込んで来ます。

 

 東京の特徴は、地方出身者が多いことです。

 寮生は六十四、五名ですが、僕の知っている限り、江戸っ子は一人もいません。まったく意味の分からない方言で話されることもしばしばで、東京は地方文化の集大成のような気がします。

 

 砂漠のような東京に住むものにとって、同年輩、同性の親友を持つことは、オアシスを持つことと同様に重要です。

 教養を深め、見聞を広くするための勉学交流生も近頃は少なくなり、来年は一人になりそうですが、現在、帯広で埋もれている若い有能な人材がより多く東京に出てくることを希望します。

 とりとめもないことを書きましたが、東京便りといたします。 

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第9章 心に残る話 第46話「外野席から」

 昔から、「山官」という言葉があった。

 誰がつけたか知らないが、山を守り木を育てる者の純朴な、また一歩ずつ踏みしめて行く地道さを端的に表した親しむべき愛称である。

 山へ行けば空気もうまいし水も清らかで、本当に身も心も洗い清められる。この清純な環境はすべての人のあこがれであり、自然を愛することは人間の本能的な欲望でもある。

 

私どもが駆けだしの頃は

「木と話が出来なければ一丁前の山官とは言えない」

とハッパをかけられ、また、その通りに努力したものである。

「人間社会の複雑さに災いされず、山官になった我々こそ最も幸せだ」

と自惚れていたのも昔の夢物語となった。

 

 されど、純朴だけが全てではなかった。

あくまでも国有林を管理経営する技術者であるというプライドを持ち、その枠の中で精一杯働き回っていた。

 精魂を打ち込むとともに、めったなことで他人からとやかく言われないよう、肩で風を切って歩くだけの気概を持っていたものである。

昔は就業一筋に、技術を中心として毎日を過ごしてきた。

 したがって、そこには野心も小細工もなく、政治的配慮も極力避け、一途に前進したものである。

 今日のように、前進しているのか後進しているのか分からない、というような誹りを受けなかったのは事実であり、現役の方々も今一度、足元を見直してほしい。

 

また、どこの職場に行ってもあまりにも会議と研修の積み重ねで、事務所には人が一杯いるが、肝心の事業所や現場では閑古鳥が鳴いているような気がしてならない。

 資源的にも、技術的にも恵まれているせいか、一部の人を除いてはあまり力を出し切っていないようにも見受けられる。

 近頃は老眼鏡を愛用するようになったので、視野も狭くピントも外れていると思うが、歯に衣着せぬまま述べさせて頂いた。

 

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第9章 心に残る話 第45話「白髪のモッコス老人」

 私が署長として着任して間もないある日のこと。この地の篤林家で一徹ものと知られる老人から電話を受けた。

 「署長さん、横道峠の造林地には、カヅラが巻き付いたままで二、三年放置されている所があるが、あれでは木がかわいそうだ。なんとかしてくれ」

 

 意外な忠告である。

「立木を払い下げてくれ」とか

「工事をやらせてくれ」

「山の木で陰になるので、伐ってくれ」といった、自分のためにする陳情や意見はよく聞かされたものであるが、

「木がかわいそうだから」

という陳情は普通、聞かない。

 

  私は早速、担当区主任に連絡をとったが、「予算の関係で予定にはない」とのことである。

 そこで、私は、この箇所を追加実行することによる金額と面積を聞き、予算措置はあとで行うので、明日からでも実行するよう担当区に指示をした。

 

 数日後、白髪のこの老人は、和服、白足袋、草履履きの特徴ある姿で署にやって来て 

「前からあの山のことは署長さんに連絡していたが、どの署長さんも『予算がない』といってやってくれなかった。貴男は電話ひとつで直ぐやってくれ、山の木も喜んでいることだろう。本当に良かった」

 この篤林家の山が何かの利益を得たが如く、老人は喜んでくれたのである。

 

 このことがあってから、この篤林家とは意気投合し、老人が材木屋との交渉で行き詰まると私が仲介を申し出たり、逆に、地元と署との間にトラブルが生じると、老人に頼んでは解決してもらったりした。

 横道峠の造林地も、今では太く伸び続けているであろう。

 今は亡き白髪のモッコス老人にあの山を見せては、薩摩名産の焼酎でも飲み交わしたいと思う。

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第9章 心に残る話 第44話「山のことわざ」

一本切って百本植えよ

 一本の木を切ったら、お返しに百本の苗木を植えるほどの気構えで植林に励めという意味であろうが、それでは前進がないので、一本切って収入をあげたら、新たに土地を求めて百本植林せよという、積極的な造林投資とも読むことが出来る。

 

山の肥料はワラジ

 古いワラジを埋め込んで肥料にする訳ではない。こまめに山を見回って、つるを外したり、傾いていたら起こしたりといった緻密な保育が、肥料をやるほどに効果を発揮するのである。

 

山は長者のヒゲ

 山はお金持ちの自慢の種という意味ではない。山林は利回りが悪く、経済的には大した価値がない。言うなれば長者のヒゲのようなものだという意味である。大阪地方には「山三分」というたとえがあり、これも、山の利回りは年三分程度で、あまり有利ではないという意味である。

 

土二文 木八文

 農山村では、木のない山の経済価値はきわめて低い。一般には、木の価格はもっと高い比率を示すであろうが、木のない山は、山にして山でないといったところであろう。

 

水一升 木一升

 水は植物の生育に重要なことから、「土一升 金一升」に語呂をあわせて作られた言葉である。

 

翁遊ばしても 山遊ばすな

 老人を無理に働かせなくても大した支障はないが、山は切ったまま遊ばせておくのは大変無駄であり、直ぐに造林せよという意味である。個人経営の面からも、国家的見地からも損失である。

 

間伐は 外を切らずに中を切れ

 間伐直後、暴風にあっても著しい被害が生じないよう、林縁の二、三列は間伐も枝打ちもしないということである。

 

植える馬鹿 見る馬鹿 伐る馬鹿 馬鹿三代で山一代

 自分の代には何ら収益を望めないのに植林に努めた初代、植林もせず伐りもせずにただ眺めて暮らした二代目、育てた木を伐ってしまった三代目。どれも余り利口な人とは言えない。しかし、このような馬鹿が三代そろって、はじめて一代の木材生産が完了する。初代が山以外に投資し、二代目が未熟材を伐採したら、そこまでの話である。なるほど馬鹿三代かも知れぬが、林業生産の立場から言えば、最も賞賛すべき、偉大なる馬鹿三代だと言える。

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