昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第4章 女性から 第25話「主婦の随想『十二年のくらし』」

 「お父さん、もう土岐のやまには、どこにも仕事をするところがないの?」

 「うん」

 「じゃあ、土岐はすっかり緑になってしまったのね」

 「うん、そうらしいな」

 「それじゃ、いままで現場で働いていた人たちは、これからどうなさるの?」

 「・・・」

これは、役所の仕事をあまり話したがらない夫と私の会話で、いつも最後は夫のだんまりで打ち切られてしまいます。

 夫は、土岐治山事業所に入って十八年もの長い間、転勤を知らずに治山の仕事に携わってきました。私はそのうちの十二年間を共に暮らしてきた訳です。

 

 煙たなびく土岐市に最初に下り立った時、一番賑やかな駅前通りでは陶器の姿を見ることが出来ませんでしたが、街外れに一歩出れば、まだまだ使えそうな茶碗や湯飲み、皿などが至るところに捨てられており、土岐市が陶器の街であることを証明していました。

 目を少し上に向けますと、冬枯れの山々は林立する煙突のけむりのせいか、くすんだ色の木々は薄汚れて見えました。ほうぼうでむき出しになった山肌は、陶土を掘った跡なのでしょうか荒れ果て、見るからに殺風景な様相で、里山の美しい緑を懐かしく思ったものです。

 

 役所のことは何も知らない私でしたが、昭和七年に始まった土岐の民有林直轄事業もいよいよ終了し、治山事業所も閉鎖されるとの噂が少しずつ入ってくるようになりました。

 毎年三月になると、一人ふたりと退職されたり転勤されたりして、今度は我が家の番ではないかと、転勤の経験のない私どもは、大きな不安と小さな期待とが入り混じった複雑な気持ちで過ごしてきました。

 主に山の仕事をする夫は、役所の机に向かっているより、体はくたびれるが現場に行った方が良いと、毎日、オートバイを走らせてきましたが、昨年の暮れにはとうとう現場も解散してしまい、山の仕事もなくなりました。

 そして明けて昭和四十五年、土岐で生まれ育った子供たちも、小学四年生と一年生になりました。長いようで短かった十二年間の土岐の暮らしも、三月には終止符が打たれることとなった訳ですが、今、あらためて山を仰いでみますと、私が初めて土岐に立った時の荒れ果てた山からは想像も出来ないほど、立派に緑豊かな山へと成長しました。

 四季折々の変化、朝夕の山の輝きは私たちの生活をうるおし、疲れた心をいやしてくれます。この山々が、緑の苗木を植え、育ててきた数多くの陰の人たちの労働のたまものであるということを、私たちは忘れてはならないと思います。また、その一員として、十八年もの長い間、地道に山を治め、勤め上げた我が夫を誇らしく思い、尊敬している私です。

 次の転勤地がどこになるか、今は分かりませんが、どこに行っても夫が精を出して働けるように、また、家族がいつも健康でいられるようにと気を配り、質素であっても明るく楽しい家庭を築くことが、これからの私の役目であり、務めであると思っています。

 

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第4章 仕事と趣味 第24話「釣魚賛歌」

 渓流の岩陰から、泡立つ淵目がけて愛竿を振る。理屈も何もいらない。それだけで満足である。

 川鳥が川面をすれすれに飛んでは岩陰に隠れる。淵の上の梢に止まっているカワセミが真下に飛び小魚をくちばしにはさんでいく。

 こんな日はたいてい鈞果良好と判断出来る。

 

 雪代の山女魚はおりさえすれば無造作に誰でも釣れるが、青葉の山女魚になると、春先から釣師達に攻められるため、もの怖じが激しい。人間の足音や竿のかげ、木の揺れに敏感になっている。餌も川の虫や蛾を腹一杯食べてきたため、ぜいたくにえり好みもする。

 また、山女魚は怪しい餌と悟れば瞬間に吐き出す。だから魚の当たりも微妙である。糸ふけの小さな変化に合わせ、竿を斜めにして川下に抜く。

 もし尺物がかかったら、手許が狂わないように息を潜めて静かに引き寄せる。山女魚は力持ちである。この馬鹿力が弱るのを待ってへちに寄せる。そして抜き足、差し足、川に入っていき、エイとばかりに両手で山女魚を岸に放り上げる。山女魚は跳ねる。美しい斑点のある身体で草の上を跳ねている。その時の私の胸はごっとんごっとんと高鳴り、しばらく止まない。

 鮎を川魚の王というなら、その上流に位し、体側に美しい小判状の斑紋を並べた山女魚は川魚の女王とでも言えようか。

 

 この女王は用心深い性質でありながら、水面や水中を流れるものは何でも飲み込む。そのために、淵の落ち口になわばりを作ることが多い。

「鮎ならば、はらわたを食わないと価値がない」と食通は言うが、この意見を生半可に聞いて山女魚のはらわたを食うと、とんでもない目に合う。青虫、芋虫、ムカデなど何が出てくるか分からない。大変な悪食家である。

 春先は魚体も小さく味も格別上等ではないが、七~八月になると大きくなり、焼くと背が割れるくらい油がのって味は最高となる。

 この季節になると人影は禁物で、川底と一定間隔に釣針を流す技術や、木々の間をぬって竿をさばく技術は川漁最高のもので、面白みもまた格別である。

 そして、数少ない獲物を河原で焼き賞味するのは、無上の楽しみでもある。

 

 木の葉がくれの夏の光に、岩をかむ急流がエメラルドに輝く。絵にも描けない美しさだ。そんな流れに鮎がいる。遠い日本海から広島県高津川を椛谷までのぼってきた鮎だ。日原から柿木あたりの鮎は東京方面でも他の川のものより一段格がまさるという。しかし、まだその上がある。椛谷事務所 から上流の鮎は数段、格が上である。事務所から上流で岩魚が釣れ始めるが、岩魚の住む水温で鮎が体質変化を起こすのか、岩魚の住む急流で鮎の身が引き締まるのか、それともはむ苔の種類が異なるのか、とにかく通でない者でも鮎の旨さの違いを感じることが出来る。

 

 女性の美しさをしのばせるスマートな体形、早春の柳の新芽のようなみずみずしい色合い、ただようばかりの自然の香り、これをそのまま味わえる方法がある。

「石焼き」である。

 これほど野趣に富む食べ方はないだろう。

 まず手頃な石を探す。扁平で滑らかな火成岩がいい。この石をたき火の中に放り込む。

 一時間もすれば石が白っぽくなる。真夏の河原で焚き火をしながら石を焼く。なんとも暑い話である。たき火の中から焼けた石を取り出す。玉の汗が胸を流れる。精錬所なみだ。

 ピチピチした鮎を生け簀から上げてくる。焼かれた石の上に置く。ピクピクと少し動くがジューとした音で止まってしまう。芝色の肌が少し褐色になる。味噌で味付けをする。油が浮き出しジュージューとたぎる。このころになると河原柳で作った即席の箸が我知らずのびる。ゴクンと生唾を飲み込みながらひっくり返して反対を焼く。

石の火照りが河原風に吹かれ顔が火照る。

 誰からともなくやろうじゃないかの声がかかる。

「おお」のつぶやきで柳の箸が一斉に伸びる。

 清流に投げ込まれていたビールがポンポンと抜かれる。夏の太陽も山かげに入り、河原に吹く風も急に涼気をおびてくる。

ビールもかなり空いたころ「うまい」の声が出る。誰の顔からも汗が引いている。

 そしてビールが酒に変わり、にぎやかな歌になる頃、石焼きは一段と旨さを満喫させてくれる。味噌のほのかな塩味、油気を失いポリポリした歯触り、とにかく最後までうまい。

うまいものにも色々あるが、あっさり型でこれに及ぶものは他にあるまい。新鮮さがあり、何処でも出来ない珍しさがある。それに、口にするまで暑さを耐えなければならない。

 うまいうまいで酒もすぎ、河原に仰向けになる。星が赤く光りはじめている。まだまだ酒盛りはにぎやかだ。

 

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第4章 仕事と趣味 第23話「日本シダの会採取記」

 第五回日本シダの会採集会が、屋久島につぐシダの宝庫として知られる薩肥国境の大口市布計国有林において、徳島と九州各県から約四十人が参加して盛大に開催された。

 

   北薩の 布計の深山に 集い来し

   吾等シダ人 まなこ輝く

 

 布計駅前から小学校の方に採取に向かう。途中には、イヌシダ、クマワラビ、シシガシラ、ウラジロ、コシダ等ありふれたものばかりで面白くない。

標高五百メートルのこの辺でも、真夏の陽光は焼けつくように暑い。流れる汗を拭き拭き、急いでヒノキ造林地内の歩道に入る。

 ヒノキの下層植生としてキジノオシダや長崎シダの大群落が続く。その中に点々とイノデやイノデモドキの大株があり、イワヘゴ、ツクシイワヘゴ、ミドリカナワラビ、ホソバカナワラビ等の群落が混生している。

 イタチシダやベニシダは余りにも多すぎて食傷気味だ。

 遠原越の途中から、羽月イヌワラビ、タニイヌワラビ、ホソバイヌワラビ、トガリバイヌワラビ、ナンゴクイヌワラビ、ヒロハイヌワラビ、カラクサイヌワラビ等々、余りにもイヌワラビ属が多すぎるため特長の判断に苦しむ。

 この群落を過ぎてスギとヒノキの造林地の間に、小さな渓流がある。その渓流のほとりに、この地の特産であるヒメムカゴシダ、オオフジシダが目にも鮮やかに黄緑の羽状複葉を展開する。

 林床は完全にうっ閉され、大群落が五百メートルも続く。まったく素晴らしいの一言に尽きる。

 

   布計谷の 遠原峠に 稀産する

   ヒメムカゴシダの みどりあざやか

 

 昭和三十二年頃から六十数回も布計を採取して、フケイヌワラビやユノツルイヌワラビ等の新種を発見された城戸正幸氏は、今後も布計には新種発見の可能性が十分あるという。話を聞けば、まだまだ僕らは勉強不足である。城戸先生の面影を歌に詠んでみた。

 

   布計谷に 六十幾たび尋ね来て

   遂に見いでし 布計イヌワラビ

 

 昼食を済ませて三百メートル坂道を登れば遠原峠で、向こうは球磨郡である。ここではウスバミヤマノコギリシダ、ノコギリシダ、ヤマドリゼンマイ、ワカナシダを採る。

 そして、布計駅から大口寄りにマツザカシダ、カネコシダ、ミヤジマシダを採集し、十六時の列車で布計駅を出発、宿舎の湯出ホテルに着く。

 

   鉄輪の きしみ激しく ディーゼルカー

   シダ人乗せて 山野線を行く

 

 これからは、標本にする押葉が大変である。汗くさい身体でシダを部屋一杯に広げ、一つ一つに名前を付ける。

 旅館は土やシダの葉っぱで足の踏み場もない。十九時三十分、標本の整理を終わらせるとひと風呂浴び、晩酌へ。シダの話から豆科植物、月桂樹、さねかずら、とべら等話題がみな豊富である。

 二十三時には酒宴を打ち切り就寝。翌五時前には既に四、五人が起き、今日のシダ採取の打ち合わせを始めている。

 会員は、シダに限らず木本や草本の権威者も多い。植生を知ることは適地に適木を植えることにつながるので、この機会に局署員の若手が是非入会することを期待して止まない。

 

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第4章 仕事と趣味 第22話「熊撃ち」

「旦那さん、熊狩りにいかネスか。奧の部落の人方が是非にって」

と前の日の昼下がりに声がかかる。

 興味津々である。

 早速鉛の実弾を用意し、金かんじき、防寒着等の準備を始める。

 

 翌朝五時、快晴。

 頑丈な体つきの若者に交じって、部落の長の命令のもと出発。

 十五、六人いるだろうか。しばらく平地を歩いて、いよいよ山中に入る。雪上は氷の粒が堅く固まり、金かんじきでも甘く歩くと滑る。朝日を背に急斜地を一歩一歩踏み出しながら、登っては下り、また登る。

 途中で勢子とブッパに分かれる。勢子とは熊を山麓から上へと追い上げる人、ブッパとは山頂で熊を待ちかまて撃つ射撃手のことである。

 目的地としていた平らな峯に着いたのは昼近く。握り飯と大根の味噌漬けを頬張ると、早速準備にかかる。

 高い話し声は禁物。必要なこと以外口をきかず、言葉を交わす時は低音。

「兎とりと同じで、ちょっとでも音がしたり、体を動かしたりすると熊は逃げていく。ブッパは決められた位置に立ったら動かないように」

と部落の長から注意を受けている。

 勢子は巻狩り開始の位置にそれぞれ着いただろうか。時刻は午後一時と決められている。不安と興味が交錯し、落ち着かないまま時が過ぎていく。

 

 やがて「ホーウッホーウッ」と遠く下の方から一斉に声がかかる。戦闘開始である。緊張感がサーッと張りつめる。膝撃ちの姿勢で銃を構え下を見つめる。

 三、四十分もたっただろうか、遥か下の方に黒点が動くのを発見。熊が巻に入ったのである。

 望遠鏡の焦点を合わせて見ると、頭を左右に振って雪氷を真っ直ぐよじ登ってくる。頭を振るたびに白い月の輪がチラチラと見える。

 月の輪を上から狙い撃ちにすれば心臓を射抜き、一発だという。

 相当近くなるまで撃たないとは聞いていたが、高まる鼓動とは別に、ブッパは沈着そのもの。眼だけが、頭をゆっくり左右に振りながら上がりつつある熊に注がれる。

 小さな黒点がみるみる大きくなる。

 突然、沈黙を破って銃声が一発、続けて右の方のブッパから一斉に火が吹く。

 部落の長も撃ちながら一言。

「早かった」 

 一、二回回転しながら落ちていった熊が、再び起き上がり、歯をむき出してものすごい勢いで走り出す。銃弾が撃たれる度に雪煙が舞い飛ぶ。

やがて横ざまに熊が転落し始める。

  大きい図体が雪氷を赤く染め、白い雪を黒毛にまぶしながら転がるさまはとても兎どころではない。

 動かない。

 一本の杖を雪氷に立てて急斜面を滑り下りる。大きい熊だ。熊の脚のひらを計って七寸あるという。なめせば七尺の熊の皮となる。

 

沢で薪を集めて火をつけ一服。その後、マキリ包丁で直ちに開腹剥皮。手足がそれぞれ切断され梱包される。各人が分担して運搬するためである。胆はこの猟の長に配られ、肉は平等に分配される。薄暗くなる頃下山し、部落の長の家にたどり着いたのは夜八時近くであった。

 興奮がさめ、地酒を口にした時は、いろりの火のぬくもりと安堵感のために私は深い眠りに襲われた。引き続く祝宴のにぎやかな声や音も、遥か遠くに聞こえるようになった。

 

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第4章 仕事と趣味 第21話「スポーツ王国 青森林友」

 青森営林局が「青森林友」の名の下にスポーツ各界に目覚ましい活躍を遂げたのは、昭和初期から太平洋戦争が起こった翌年の昭和一七年までである。スポーツ王国を誇った青森林友も、太平洋戦争で息の根を止められた。

 もっとも、戦後、野球部やスキー部はいち早く復活して活躍を見せたが、戦前の盛況さに比すべくもなかった。その後は時流の変遷に伴って衰退を重ね、硬式野球部は昭和四十年に解散し、名門スキー部も逐年弱体化し、往年の面影はない。

 戦後、新設され、一時強大を誇った排球部も今は声もなく、陸上競技部が駅伝等でわずかに気を吐いている程度である。(陸上競技部は、初出場の駅伝大会で、「ゴールしたらもう閉会式が終わっていた」という、うそのようなエピソードを持ちながら、秋田の同和鉱業とともに東北の駅伝黄金時代を築いている)

 

青森林友の黄金時代。そのトップを切ったのは卓球部である。

 昭和四年、北日本卓球大会で優勝して周囲をアッと言わせた。そして、翌年には、村林紀八郎選手が全日本卓球大会と極東選手権でアレヨアレヨという間に優勝し、日本一と東洋一となった。それから十年間は、沢田、加賀谷、山中らの名選手を輩出して常勝不敗の卓球王国を誇った。

 

次に台頭したのがスキー部である。

 昭和六年、全日本スキー選手権のジャンプ競技において、山田勝己選手が二位となり、レークプラシッド冬季オリンピックへの出場が決まった。林友選手のオリンピック出場第一号である。

 また、昭和十一年には山田伸三、山田銀蔵の両選手が、日本代表としてドイツのガルミッシュ、パルテンキルヘンで開催されたオリンピックに出場した。

 その他、全日本をはじめ、各種スキー大会のあるところ、林友スキー部の戦績は枚挙にいとまがない。

 余談だが、最近、一杯機嫌のだみ声で唄われている「シーハイル」の歌は、当時の、林友スキー部応援団の愛唱歌である。

 

 しかし、青森林友各部の中で、何といっても一番の人気を集め、華やかな存在だったのは野球部である。

 昭和五年、棒葉局長が出現して以来、スキー部とともに野球部が強化されたことは周知のとおりである。この棒葉道場でしごかれた野球部の黄金時代は、昭和八年に専用の青森球場が完成した時に開花する。

 当時、北辺に「青森林友あり」との令名は全国に知れ渡っており、渡道する大学や社会人チームは、往復のいずれか青森球場に立ち寄り、林友チームと一戦を交えるのが通例となっていた。

 不遜にも田舎チームなどと侮って対戦しようものなら、林友の猛襲にあってほうほうのていで退散したものである。

 戦前十年間の野球部黄金時代にあって、特に強かったのは昭和十年と昭和十四年である。小田野柏投手と高瀬忠一投手の二大投手が健在しており、「名投手あるところに勝利あり」の金言どおり、どちらも素晴らしいチームだった。戦績から見ても、昭和十四年には苦節十年、都市対抗東北代表として晴れの後楽園に出場したのだから、強いことは間違いない。

 当時の選手は、街を歩いていても、現在のプロ野球の選手並みに人気があったという。

 

 柔道、剣道、弓道のいわゆる武道部の活動も特筆に値する。

 剣道部の黄金時代は昭和八年から十八年までであったが、これは、天才的剣士の小笠原二郎を迎えたことと、全国中等学校剣道界の常勝名門校である小午田農林学校から全国一流の選手達が続々と入局したことによる。

小笠原二郎と言っても、戦後の人たちには未知の名であろう。だが、戦前の人たちは、武道者最高の名誉である皇居内済寧館の展覧時代に出場し、準決勝で敗れたものの新聞、雑誌等で賞賛された当時の人気者である小笠原名人の名は忘れてはいない。小笠原氏は明治四十二年に大館市で生まれ、盛岡高農を経て、昭和七年に青森局に入っては後進の指導に当たった。

 時局の影響もあり、昭和十二年に農林省主催の全国剣道大会が開催された。営林局のみならず、各下部官庁が参加した盛大な大会であったが、同年は準優勝、翌十三年は優勝し、今更ながら青森林友の強さを全国に知らしめることとなった。

 昭和十八年。戦雲いよいよ急を告げる頃のこの大会は、選手の入営も時間の問題となっていた。

 下馬評では優勝の呼び声が高かった林友剣道部は、着京早々、警視庁道場で猛稽古を行った。そして、又とない機会だからと、警視庁の四級陣と練習試合をしたところ、結果は見事な快勝に終わり、警視庁の猛者連中を驚かせた。

 ところが、それで止めれば良かったのに、更に五級陣(警視庁代表チーム)に練習試合をお願いしたのである。さすがに相手は音に聞こえる警察界きっての最強チーム。青森の警察対抗とは訳が違いコテンコテンに打ちのめされた。

 そして、こうした過度の練習による疲労のせいか、本番の全国大会では優勝どころか三回戦で敗れてしまい、最後の全国大会は誠に痛恨の結果となってしまった。警視庁との練習試合で発揮した実力の半分しか、本番では力を出せなかったのである。

 

弓道部は、当時、営林局の文書係に県下最高権威の沼田末吉師範がいたので、その指導で幾多の名選手を輩出し、各大会で活躍した。短気で有名だった当時の局利用課長の佐藤毅六さんも弓道の大家であった。どんなに機嫌の悪いときでも、弓の話をするとたちまち上機嫌となるので、「弓道の本を買って勉強する業者が増えた」といった伝説が未だに残されている。

 

 柔道部が正式な部として認められたのは昭和十三年で、林友各部の中では新参者である。

 しかしながら、武道の大本山である日本武徳会が支部単位で毎年開催する武道大会には、剣道、弓道の両部と仲良く帯同し、各地の大会を出場して回った。

 全国の営林局の中で、柔道部を作り、これほど対外的に目覚ましい活躍を遂げたのは、もうどこにもない。

 青森林友柔道部こそ、全国営林局での最初にして最後の柔道チームであった。

 

 強大を誇ったこのスポーツ大国も、やがて崩壊する日がやってきた。強健な体躯と闘志満々の林友各部の選手たちは、精強勇敢なる兵士として召集され、職場を去った。そして、紅顔の若者たちは、いたましくも次々と戦野に散ったのである。

 また、我々の職場も変わった。戦後の官庁スポーツのあり方が、選手制度の廃止など、その制度と共に大きく様変わりした。さらに、年中行事化した賃上げ闘争とは対照的に、当局も若い連中も次第に競技スポーツから遠のいていった。

職場の志気が沈滞すればするほど、スポーツの果たす潤滑油、志気回復としての役割は大きい。

 こうした意味で、不況産業の炭坑の町から出てきた三池高校が、苦戦の連続の末に手にした深紅の優勝旗は更に価値あるものであり、同じ仲間、同じ条件の町や職場の灯りとなり、一つの指針となることを祈って止まない。

 

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第3章 営林署から 第20話「ある見送り」

私が現場にいた時、一人の署長が退職した。誠実で責任感が強く、本当に人徳豊かな人物であっただけに、突然の退職は惜しまれるところがあった。

いよいよ任地を去る日に、見送りに行くべく単車の準備をしていると苗木が送られてきた。時間が差し迫っていたが、仕方がないので山元へ行き検収し、仮植の指示をした後、駅へと単車を飛ばした。

やっとの思いで駅にすべり込むと、既に向こうの上り線のホームから大勢の人たちが出口に向かっている。汽車は発車した後であった。わずかの違いで見送れずしょげきっていると、向こうのホームからTさんがきょろきょろしながら出てきた。

 「やあ、一寸の違いで遅れてしまって」

バツが悪そうに話す私を見て、彼は

 「いや、僕もこの汽車だと聞いて見送りに来たが、署長は乗らなかったよ。これから署に電話して、時刻を確かめてみるところだ」

彼はそういって駅前の電話ボックスに入った。

 「次の汽車に変更になったそうだ」

そう言って駅の待合室に入り、時刻表を見て発車時間を確かめた。

 「これならまだ二時間近く時間があるな」

 「うん、かなり長いな」

冬の寒さが地面から伝わり、そのうえ単車で走ってきたので、体は芯まで冷え切っている。

 二人はどちらから誘うでもなく、待合室が良く見える、駅の真向かいの店に入った。

 火のつけられたおでんの鍋から、暖かそうな湯気が盛んに出ている。

 とにかく特効薬で軽くやろうと、大きな声で熱燗を頼む。奧の方から女子プロレスラーのような体格をした娘がのっそりと運んできた。コップを二つ出し、酒を注ぐとまた奧の方に消えていく。酒が腹の底にジーンとしみ込むと、寒い山道をほこりを食いながら走ったことなど全て忘れてしまい、腰を据えて酒をぐいとあおる。

 時々顔を出す娘をおだてたり、ひやかしたりしているうちに、いつしか時間が過ぎていく。

 

 「署長はおそらく、三十分前には駅に着くだろう。その前に店を出ようや」

彼は古ぼけた柱時計に視線を合わせながら、落ち着いた口調で言った。

 「それならぼつぼつ行った方がよいのじゃないかね」

 「なに、まだ大丈夫だよ」

落ち着きはらったものである。コップ酒も既に三杯を超えている。

 「そろそろ署員が来ておるんじゃないかね」

私は妙に気になって駅を見た。

 そして、その瞬間、ガンと一撃を浴びたような衝撃を受けた。心地よい酔いもいっぺんに吹き飛んでしまった。汽車は見送りの人々を残して発車し、最後尾の客車が、かすか遠くに目にとまったのである。

 「Tさん、今、上りの汽車が出たが、あれじゃなかったのかね」

 「大丈夫、時刻表を確かめてあるから、まだ出ることはないさ」

Tさんの声を聞きながら駅の出口にはき出される人の顔を見ていると、署員がぞくぞくと出て来るではないか。

 「Tさんよ、こりゃおおごとぞな。見送りの署員が駅から出てきたがな」

 

彼はびっくり仰天した。そして駅へ走り時刻表を確かめてみると、これは大失敗、下り列車の時刻を見ていたのだ。だが、慌てふためいても後の祭り。汽車はもう遥か高松をめざして突っ走っている。

あれほど忙しい思いをして駅まで急ぎながら、縄のれん一つへだてた場所に座っていて、見送りにはぐれ、大失敗をやったのである。

 

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第3章 営林署から 第19話「奥日光のシカ」

私は、国有林の仕事を通じて、妙に動物たちとつきあうことが多かった。

 シカとイタチとウシ。そして、これは間接的ではあるが国際保護鳥のトキである。

 シカは狩猟用として、イタチは野ネズミ退治用として、ウシは肉用牛として、それぞれの増殖に携わり、また、トキの自然繁殖にもかかわった。

 色々と苦労もしたが、今ではこれらの動物が懐かしく思い出される。

 

 奥日光の男体山の裏側には、我が国唯一のシカの国営猟区がある。大型の獣を撃てる猟区は魅力的であり、入猟者は政財界の著名人も多かった。三橋達也など映画スターの名も耳にしたものである。

この猟区の経営は営林署が行っており、猟区の主任は日光担当区である。猟区内のシカの推定生息数は五百頭とも七百頭とも言われていた。毎年、冬期の土日が猟の日と定められており、平均して四十人の狩猟家が入山し、一冬で約五十頭が獲物となっていた。

 五千ヘクタールの猟区は十数箇所に区画され、前日の目撃情報により「明日の猟場は第何号にしよう」と作戦会議が開かれる。当日は十数名の勢子を連れてお客を猟場に案内し、勢子が追い出したシカを客が一列に並んで一斉に撃つ。

 普通、一回の猟で一、二頭は仕留めていたものが、昭和三十六年頃からパタリと獲れなくなった。一冬で十頭にも満たない状況となってしまったのである。

 東京からわざわざ泊まり込みで来るのに、シカを撃つどころか、姿さえ見ることができないため、林野庁でも問題となった。

 

 この猟区の奧には栃木、群馬、福島の県境があり、人跡未踏の深山が綿々と連なる。また、猟区は東南に向き日当たりが良く、ナラをはじめとする広葉樹も多いことから、シカの生息場所としては理想的である。

 ところが、営林署の伐採が進み、人工林が増えていくにつれ、ドングリ等の餌とシカの隠れ場がなくなった。

 いきおい、シカは奥地へと逃げていき、猟区にはすっかり現れなくなってしまったのである。

 早速、林業試験場の専門家を現地に呼び、対策を練ってもらった。

 猟区内の伐採は縮小し、伐採区域は連続せず、シカが隠れることが出来るよう保残帯を設ける。また、沢筋も水飲み場として伐採せず保残する。シカの好む牧草を林内に栽培する。時折食塩を林内に置き、健康増進を図る等々。

  営林署はこの方針に従い対策を講じたというが、それから十年、先日、偶然ながら日光の猟区について話を聞く機会があり、かつての対策が実を結んでシカが増えつつあるとの話を聞いては、心中快哉を叫んだものである。

 

 シカに関して我々を悩ましたものは、野犬と密猟者である。これらにより失われるシカの数は、狩猟によるものより多いとの推定さえあった。

 野犬はもとは捨て犬であり、人を見れば遁走するが、時には牙を剥くこともある凶暴なケモノである。

シカを追う野犬は一匹ではなく、チームワークを組んでいる。三、四匹が追い出しにかかり、一、二匹がこれを待ち伏せして倒し、皆でむさぼり喰う。

 犬に追われたシカがたまりかねて中禅寺湖に飛び込み、溺死することも毎年一、二回あった

 時折、ワナを仕掛けては処分したが、実にすばしこいため、なかなか退治出来ずに苦慮したものである。

 

野犬と並ぶ悪者は密猟者である。

 猟期以外に銃声が聞こえた場合、それはたいがい密猟者の仕業であるが、山は深く険しいことから彼らを林内で捜し出すのは至難の業である。

 また、密猟者は、一週間ぐらいは平気で野宿し、夜陰に乗じて逃亡する。やり方も巧妙であり、シカを撃つ者と肉や皮を運ぶ者が分業制をとるため、簡単には捕まらない。

私も、山道を足早に下りてくる屈強な二人連れに出会ったことがあるが、殺伐な面構えといい、用意周到な支度といいタダ者ではなかった。

  問い質しても山菜採りと言い張るが、司法警察権を発動してリュックの中を見たところ、血の匂いのする刃渡り一尺以上の山刀が出てきた。彼らは、下山時に鉄砲を山中に隠すのである。直ちに警察に連絡して住居を調べたところ、予期したとおり多数のシカ皮と角が出てきた。

 この時は、こちらも人数が多かったので心強かったが、逆の場合は、こちら側が身の危険を感じることもある。

 

 狩猟と言えども、獲るだけでは駄目である。増やすことも考えねば元も子もなくしてしまう。狩猟ブームは高まる一方と言われており、国有林もこれに本格的に取り組む日が近いのではないか。

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