昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第7章 あの頃の思い出 第32話「オホーツク海の回想(一)」

 昭和四十年四月の異動で、オホーツク海に面した斜里営林署に勤務することとなった。

 考えてみると、オホーツクの海は、私にとって切っても切れない糸で結ばれているように思えてならない。そこで、この思い出の糸をたどってみることにする。

 

 昭和八年に学校を卒業した翌春、未開の北の果ての地、樺太に渡り、樺太庁に勤めることとなった。

 当時の樺太庁は内務部・農林部・警察部の三部からなり、農林部は林務課・林業課・植民課・土木課に分かれていた。私の所属は林業課施業案係であったが、基本図の作成や林相区分図等の図化に航空写真を使用したため、短期間に全島の森林計画を樹立することが出来た。課内は大学、専門学校出の二十代の若者が占めており、活気にあふれ庁内の人気を独占していた。

 

 昭和十一年十月、樺太の中央部を横断した台風により、各地で林業史上最大といわれる風倒木が発生した。

 当日は、午後から生暖かい南風が急に強くなり、台風は豪雨を伴いながら森林を一包にして大きくゆさぶった。カバ、トドマツ、エゾマツの枯損木の梢端がちぎれて飛び、ちょうど私は施業案編成調査で真岡町に出張中であったが、天幕が飛ばされ、増水した谷川の水で調査用具がほとんどが流されてしまった。生きた心地もせず、エゾマツの大径木の根元で、濡れ鼠のようにがたがた震えながら一夜を明かしたことを覚えている。

 朝になってみると、周囲の生立木はみな将棋倒しとなっており、不気味な姿を見せていた。この風害で全島の森林に二千万石の被害が出たが、その後、被害跡地ではヤツバキクイムシ、トドマツキクイムシなどの加害も始まり、これが昭和十八年頃まで続いてその被害は三千万石にのぼったと言われている。

 

 この風害が縁となって、昭和十三年七月、私は、最も被害が多かった元泊林務署に森林主事として転任となり、被害木の処理にあたった。この林務署の年間売払い量は五百万石と膨大で、当時の北見営林局の年間売払い量を遙かに上回っていたことからも、台風の被害がいかに大きいかが分かる。

元泊林務署長は北大出身の庄司という人で、勅任官で樺太庁の三部長と同格であった。本庁の監査があっても上席は譲らなかったと言われており、署員にも厳しく怖い存在であった。

 昭和十六年十二月の日米開戦のニュースを聞いたのは、遠古円の天然更新事業所である。ラジオが捉えたアナウンサーの興奮したかすれ声がひびき、身のひきしまるような一瞬であった。作業員のどよめきとともに、事務室はたちまち大騒ぎとなり、一同、茶わん酒で万歳を叫んだことも昨日、今日のように思い出される。

 北樺太を源とする、河口幅三キロメートルもあろうかと思われるホロナイ川の砂丘の上に、日本最北端の国境の町、敷香(シスカ)がある。人口二万人余の町が新たに作られていく姿は、青年の逞しさを感じさせる。漁業、林業、工業の町として活気にあふれており、ホロナイ川の流域五十万ヘクタールから伐り出された丸太は流送で敷香まで運ばれ、そこで船積みにされたり、パルプ工場へと移送される。東洋一と称された王子の国策人絹パルプ工場からは、雄大なホロナイ川を背景に、黒煙がもくもくと吐き出されていた。

 この川の彼方には、平和なオタスの森があり、ツーグス族、ギリヤーク族、オロッコ族などの先住民族が生活している。彼らは、シャケ、マス、アザラシ、トド、オットセイなどを捕まえては食糧とし、また橙油、衣料や器具に加工して暮らしているが、力ある種族は、トナカイを数百頭飼い慣らしては天然の野草を求めて移動する、いわゆる遊牧の民であるという。

 

 ある日、ホロナイ川上流のツンドラ地帯の森林調査を行っていたところ、緑の草原の中央に天幕村を発見した。周囲には多くのトナカイが群れを作り、草を喰んでいる。

 恐る恐る近づくと、ムウムウのような色どりの衣装をまとったオロッコ族の夫婦が、私たちを迎え入れてくれた。和人の若い山役人の訪問が、非常に嬉しかったようである。幕舎の中に入ると、十五センチ程度に切った若いトドマツの針葉が重なるように敷かれており、清潔な青畳を連想させた。その上には毛皮が置かれ、調和した美しさを現している。

 歓待の記として最初に出されたものはエゾコケモモの果実酒で、淡泊な甘酸っぱい味であった。次に黒パンとチーズが出されたが、食べてみると煙の臭さが強く、苦みが感じられた。トナカイの乳は草の臭いが強く、飲み残してしまった。

 先住民の彼等は、トナカイを家畜とし、その乳からバター、チーズ、薫製肉を作り生活している。近代文明が、このような素朴な暮らしをしている少数民族を圧迫し、滅ぼしていくのかと思うと、若い私の心には言い知れない寂しさと、憤りがこみ上げてくるのを禁じ得なかった。

 夕方近くなったので別れを告げ帰途についた。彼等は、私たちの姿が見えなくなるまで見送ってくれた。振り返ると、緑の草原の中の幕舎が、夕映えに天国の城のように美しく描き出されており、この時の印象は、一生、私の心の中に美しい思い出として刻まれている。

 

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