第7章 あの頃の思い出 第37話「千島森林誌をつくって」
もう十年前にもなるだろうか。秋田出身で社会党闘志だった故人の川俟清音さんが、私の書いた「千島森林誌」を国会で取り上げた。
「千島は、権威ある農林省の帯広営林局がつくった『千島森林誌』によれば、れっきとした国有財産ではないか。総理はこの事実をどう認識されてるのか」と川俟氏は喰い下がり、危うく政府参考人として国会へ呼び出されるのではないかと胸を痛めたことが、ほろ苦く思い出される。
「千島の国有林に取り組んでくれないか。年が経つとともに、資料や島を知っている老人たちもいなくなるし、戦後十年、もうそろそろ記録の限界に来ている。帯広営林局がやらなければ、この国家的事業はダメになる」
ある日、当時の伊藤局長に呼ばれ、このように言われた。
考えてみれば私も若かったし、燃えやすい性分なので
「よし、いま俺がやらなけりゃ、誰がやるんだ」
と妙な侠気にかられた。
当時、根室周辺には島から引き上げてきた人が沢山いたし、足と対話でまとめる以外に方法がないので、根室営林署にわが身を移すこととなった。
戦前の千島は一大軍事基地だったため、すべてがベールに包まれていた。まったく一人で書き綴った「千島森林誌」を本棚からひっぱり出しソッと開いてみると、私はこのように書いている。
「道内はじめ全国には、千島返還運動に関する多くの団体があって、長い年月と豊富な陣容でパンフレットを出しているが、すでに資料的限界が感じられていた。
また、ソ連占領軍により終戦を迎えたことや、戦前は軍事基地であったため関係書類や写真の持ち出しは厳重な検閲を受け、資料自体がもともと寡少であったこと、北海道唯一の書類保管場所であった道庁でも、終戦直後、機密文書として公然と焼却してしまったことなどから、千島の森林を集録することの難しさは十二分に知っていた。
言うまでもなく、この種の大記録となると、何といってもしっかりとした青写真が必要であるが、その青写真が作れないところに大きな悩みがあった。ペンを握りはじめの頃はほとんど基礎資料もなく、火事場の焼けている材で家を建てるような悪戦苦闘ぶりで、片手で足や耳を頼りに資料探しを行い、片手でペンを握って整理する。しかも、苦労して書き上げたものが、その後見いだされた一片の資料によって、メラメラ燃えて灰になってしまうといった繰り返しの作業となり、たえず空虚や焦燥、 孤独感に襲われた。
営林署の庶務課長というポストにあって、退庁後や休日を利用しての調査や執筆は、あらかじめ完成予定日を指示されていただけに実に苦しかった。何回か著作したが、こんなに歯をくいしばったことはなかった。こんなに時間がほしいと思ったこともなかった。結局、千島の森林を包んでいるボリュームの前に、か弱い人間一人の知恵が翻弄されたというに尽きる。」
千島の陸地百万ヘクタールは、ほとんど全部と言ってもいいほど国有林で、国後、紗那(しゃな)、根室の三営林区署で管理していた。千島国有林の歩みがそのまま千島の歴史につながるのである。B5版三百四十四ページの中には、写真、図面約六十葉。北千島の占守(しゅむしゅ)島から色丹島に及ぶもので、これに林相図まで添付され、往時の模様を知ることが出来る。
たとえ今は異国の森林でも、あれから三十年近くの年輪を刻んで、いよいよ立派に成長していることだろう。
「国後の茶々山の裾野一帯は、戦前のミツマタの豊かな林相に似ていた。トドマツ・エゾマツは胸高直径一尺前後の一斉林で、優良林分では町歩当たり千石、普通でも七、八百石はあった」
と一人でうなずかれる北海林友の斎藤十郎さん。
「ルルイ付近ではエゾマツの十一石余のものがあり、また、造材したときに十二尺ものが八丁も採れた。秋田木材会社が十三年間、毎年五、六万石の造材を続けたが、飯場を移したのは三年間にわず か一回で、それも択伐作業の現場だった」
と担当区主任の思い出を語る局厚生課の松本秀男さん。
私にとって、極めて印象的だ。
納沙布灯台から眺められる秋勇留(あきゆり)、水晶などの島は、そっくり飛行場にしたら良いほど何もない平坦な島で、奧に森林を抱える千島の前景としてはわびしい限りだ。
そして、こんなイメージが、北方領土返還の呼びかけに対し、水産業関係がともすれば前に押し出されがちで、このことは、長い間林業人の誇りに生き抜いてきた私にとって、どうにも耐えられない次第である。
北方領土返還に向け、千島の国有林についても、そのイメージアップに努めてほしいものである。