昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第9章 心に残る話 第47話「東京便り」

 知床の山奥から東京に出てきて、はや二年三ヶ月がたちました。ようやく仕事に慣れ、生活に慣れ、自分のペースで進むことが出来るようになりました。

 しかし、北海道に生まれ十勝に育った僕には、帯広の水が一番適しているかも知れません。今でも一人になると、思い出すのは中標津の山や標津川です。

 

 勉学交流制度というものを知り、受験のため上京しましたが、この時は全く自信がなく、東京見物もたまにはいいだろうと軽い気持ちでいました。

 試験も終わり、実家に帰っていたところ、かすかな期待が当たって合格通知が届きました。

 幸運も重なり、その年は希望者が一名だったので、無競争で内示をもらい、上京する運びとなりました。

 

 当時、問題となっていたスモッグと自動車の騒音は、聞きしに勝るものでした。快晴といっても、僕には薄曇りの空にしか見えないし、鼻毛がとにかく邪魔になるほどよく伸びます。北海道の寒さだと凍って大変だと思います。

 音の方も強烈で、自動車からパトカー、地下鉄工事、飛行機と音色もさまざまなものがあり、神経質な人だったらノイローゼになりそうです。

 悪いことに、我々独身が住む若葉寮は「夜霧の第二京浜」で有名な国道一号線の傍にあり、小高い所の五階建てなので、音の弾丸が機関銃のように飛び込んで来ます。

 

 東京の特徴は、地方出身者が多いことです。

 寮生は六十四、五名ですが、僕の知っている限り、江戸っ子は一人もいません。まったく意味の分からない方言で話されることもしばしばで、東京は地方文化の集大成のような気がします。

 

 砂漠のような東京に住むものにとって、同年輩、同性の親友を持つことは、オアシスを持つことと同様に重要です。

 教養を深め、見聞を広くするための勉学交流生も近頃は少なくなり、来年は一人になりそうですが、現在、帯広で埋もれている若い有能な人材がより多く東京に出てくることを希望します。

 とりとめもないことを書きましたが、東京便りといたします。 

f:id:sikimidaigarden:20211023143905j:plain