昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第2章 営林局から 第9話「黒部の測量隊」

ここに、十数人のたくましい男たちがいる。

 彼らは五年間にわたって、夏の数十日を人跡未踏というべき僻村の山で過ごした。道をつけ橋を渡し、テントを張り便所を作り、自家発電所とドラムカンの浴場までしつらえると、いよいよ仕事にとりかかる。

 その仕事とは、明治三十七年に測量した際の境界線を現地で探し出し、これを再度測量し、確定していく作業である。推理の道具は六十四年前の測量簿と、そのとき誰かが残したであろう微かな痕跡。当時の測量隊が支障木としてした切り払った木や枝の跡や、木標を打った際の周囲の盛土などを手がかりとして、現地での測量を進めていく。

 

昭和二十七年から二十年がかりで行う境界確定は、富山県有峰ダムの最源流部、岐阜県との県境にある寺地山(一九九六メートル)を起点として、薬師岳(二九二六メートル)の脇をかすめて越中沢岳(二五九一メートル)を超え、常願寺側の源流を通り黒部ダムの平の渡し場へとつながる、標高差千メートル、延長二十七キロメートルの路線である。

明治三十七年に境界査定が行われて以来、手を加えることなく放置されてきたため、当時の木標は既に腐っていてどこが境界点なのか分からず、石標についてもただ一本、有峰ダム上流の旧登山道の脇で見つけることが出来たのみである。このため、現地で不明となった境界標を復元し、これを国土地理院が行った三角測量の測点につなげることで現地で境界の位置を確定し、かつ、その境界の位置を図面の中で明らかにしていく。

 

 技術面でのつまづきが早速やってくる。

 測量を進めていく中、明治三十七年の測量成果と現地とが突合しなくなってきたのである。現場担当者があらゆる角度から検討したが原因がはっきりしない。

 「六十年以上前の測量成果によらず、新しく現地で境界を決めればよいではないか。隣接地は北陸電力の所有地であり、話を容易にまとまるはず」

との意見も内部で出てきた。

 しかし、たとえ精度の良否はあろうとも、昔の測量成果がある以上、それを捨てるとは測量屋の意地が許さないし、国有林のメンツに賭けても乗れる話ではない。かくして、最新の空中写真まで持ち出し、これを図面化することにより、どこで間違ってきたのか原因を調べることとした。

 ある時、空中写真を見つめていたO君が

「この細い線は何だろう。写真の焼き傷ではない、境界を伐開した跡ではないか」

と言う。

「そうに違いない」

 早速古い成果と並べて見ると、部分的によく一致している。

 空中写真にある僅かな細い線を頼りに現地を踏査すると、当時の測量簿から導き出した測点から一メートル程離れた場所に、ちょっと土が盛り上がっている箇所があるではないか。早速、スコップで掘り起こすと、真ん中に木標を打った痕跡が出てきた。そういう時の喜びは、技術屋として格別なものがある。

 無論、それぞれ自分の技術には絶対の自信を持っているが、こんな所が果たして境界線なのかと疑問に思う時には、昔の物の拠り所がないと、なかなか安心出来るものではない。

    

現地での測量は、毎年、梅雨明けから九月上旬まで連続して行われるが、八月十三日から十六日までは富山地方のうら盆となるため、一時的に下山する。南極観測隊やヒマラヤ登山隊などでは、一つのパーティがある期間、外部から隔絶された所で一切の作業を進めていくが、国有林の測量現場でも、もちろん規模も質も違うが同じような共同作業が行われる。

三日か四日の楽しみで行うキャンプと違い、数十日にも及ぶ天幕生活の不自由さを辛抱しながら仕事を続けるのは、並大抵の忍耐ではない。

 ベースキャンプから現場が離れると、五、六食分の米と缶詰、それと寝袋と着替え、測定の器械を担いでゴロンする。ゴロンとは簡易テントで寝ることであり、笹をひいては寝袋にもぐるのである。稜線に近いため水場がなく、炊事の水を運ぶのが精一杯という時もある。食事の内容も材料が限られているので、毎回、変わりばえのしない物ばかりである。

 同じテント生活であっても、ベースキャンプではおばさんの手料理が食べられる。ドラムカンの風呂にも入れる。場所によっては岩魚釣りが出来、面白いほど釣れる時もある。岩魚の刺身はおつなもので、トリスのキングサイズを舐めながら焚き火を眺め、いつしか眠りにつくのである。

 

 測量の仕事は、まず境界線の伐開から始まる。伐開作業は測量が出来るよう見通しを良くすることが目的であるが、登山道が整備されている訳ではないので、藪笹の中を鉈と鎌だけで切り開いていく。朝露でびしょぬれになり、山うるしに悩まされながら、二十七キロメートルの境界線を、山を登り沢を下っては一歩一歩進んでいく。

「やはり伐開作業が一番疲れるね」

「そりゃそうだ。全力投球だもの。体全体を動かす仕事だからな」

 作業員の声が、背丈以上もある藪の中から聞こえてくる。それを追いかけるように、職員が測量道具を担いで登って来た。測量機器も徐々に改良されてはいるが、山岳測量の場合、結局、重い機材を持ち歩くことには変わりはない。   

「この仕事の中で、測量だけは楽だね」

「そりゃそうだ。ただポールを持って突っ立っているだけだから」

 測量が始まると職員は真剣であるが、作業員は言われるままポールを持つだけであり、心なしか笑顔も見られる。

 

 測量の最大の敵は雨ではなく、ガス(霧)である。ひとたびガスが出てしまうと測量はお手上げとなり、三日で終わる予定が、四日、五日と延びてしまう。場所によっては、朝の九時半頃にはあたり一面がガスにすっぽりと覆われてしまうこともある。

「明日は二時半起床で、三時に出発したいがどうか」

と職員や作業員に声をかける。

みんな慣れたもので反対などない。自然相手の仕事である。苦労して登る以上、仕事は最大限進むことを誰もが期待している。

 むしろ、こうした高い山に登ると御来光を拝めることもあり、美しい朝の光を背にして仕事をしている時などは、苦しみもあるが楽しみの方が大きく感じられる。

    

 測量が終わり測点が決まると、次に境界標の埋設作業が待っている。腐朽した杭をコンクリート標や合成樹脂標などの永久標に切り替えていくのである。

「初めは測量の仕事だけかと思っていたけど、コンクリート標を背負って歩く仕事があるとは思わなかった」

一本十五キロもあるコンクリート標を運ぶ作業はつらく、それだけに山岳林の測量は若くて頑丈でないと勤まらない。       

 測量の仕事は、山の奥地で行われる地味で厳しい仕事であり、木材生産とか造林の仕事のように成果が目に見えて残るものではない。しかしながら、他人の財産と国有財産との境界を明らかにするという重要な職務である。

「この仕事は天職だと思っているし誇りも持っている。だから、やり終えた時は自分なりに満足しているし、満足しているからこそ、つらい仕事も勤まっているのかも知れない」

    

 露に濡れ、重い荷物を背負って山を登り沢を下ること数十キロメートル。国有財産の礎となるこれらの困難な仕事に汗する山男たちは、今日も境界線を歩くのである。

 

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