昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第7章 あの頃の思い出 第37話「千島森林誌をつくって」

 もう十年前にもなるだろうか。秋田出身で社会党闘志だった故人の川俟清音さんが、私の書いた「千島森林誌」を国会で取り上げた。

「千島は、権威ある農林省の帯広営林局がつくった『千島森林誌』によれば、れっきとした国有財産ではないか。総理はこの事実をどう認識されてるのか」と川俟氏は喰い下がり、危うく政府参考人として国会へ呼び出されるのではないかと胸を痛めたことが、ほろ苦く思い出される。

 

「千島の国有林に取り組んでくれないか。年が経つとともに、資料や島を知っている老人たちもいなくなるし、戦後十年、もうそろそろ記録の限界に来ている。帯広営林局がやらなければ、この国家的事業はダメになる」

 ある日、当時の伊藤局長に呼ばれ、このように言われた。

 考えてみれば私も若かったし、燃えやすい性分なので

「よし、いま俺がやらなけりゃ、誰がやるんだ」

と妙な侠気にかられた。

 当時、根室周辺には島から引き上げてきた人が沢山いたし、足と対話でまとめる以外に方法がないので、根室営林署にわが身を移すこととなった。

 

 戦前の千島は一大軍事基地だったため、すべてがベールに包まれていた。まったく一人で書き綴った「千島森林誌」を本棚からひっぱり出しソッと開いてみると、私はこのように書いている。

 

「道内はじめ全国には、千島返還運動に関する多くの団体があって、長い年月と豊富な陣容でパンフレットを出しているが、すでに資料的限界が感じられていた。

また、ソ連占領軍により終戦を迎えたことや、戦前は軍事基地であったため関係書類や写真の持ち出しは厳重な検閲を受け、資料自体がもともと寡少であったこと、北海道唯一の書類保管場所であった道庁でも、終戦直後、機密文書として公然と焼却してしまったことなどから、千島の森林を集録することの難しさは十二分に知っていた。

 言うまでもなく、この種の大記録となると、何といってもしっかりとした青写真が必要であるが、その青写真が作れないところに大きな悩みがあった。ペンを握りはじめの頃はほとんど基礎資料もなく、火事場の焼けている材で家を建てるような悪戦苦闘ぶりで、片手で足や耳を頼りに資料探しを行い、片手でペンを握って整理する。しかも、苦労して書き上げたものが、その後見いだされた一片の資料によって、メラメラ燃えて灰になってしまうといった繰り返しの作業となり、たえず空虚や焦燥、 孤独感に襲われた。

 営林署の庶務課長というポストにあって、退庁後や休日を利用しての調査や執筆は、あらかじめ完成予定日を指示されていただけに実に苦しかった。何回か著作したが、こんなに歯をくいしばったことはなかった。こんなに時間がほしいと思ったこともなかった。結局、千島の森林を包んでいるボリュームの前に、か弱い人間一人の知恵が翻弄されたというに尽きる。」

 千島の陸地百万ヘクタールは、ほとんど全部と言ってもいいほど国有林で、国後、紗那(しゃな)、根室の三営林区署で管理していた。千島国有林の歩みがそのまま千島の歴史につながるのである。B5版三百四十四ページの中には、写真、図面約六十葉。北千島の占守(しゅむしゅ)島から色丹島に及ぶもので、これに林相図まで添付され、往時の模様を知ることが出来る。

たとえ今は異国の森林でも、あれから三十年近くの年輪を刻んで、いよいよ立派に成長していることだろう。

「国後の茶々山の裾野一帯は、戦前のミツマタの豊かな林相に似ていた。トドマツ・エゾマツは胸高直径一尺前後の一斉林で、優良林分では町歩当たり千石、普通でも七、八百石はあった」

と一人でうなずかれる北海林友の斎藤十郎さん。

「ルルイ付近ではエゾマツの十一石余のものがあり、また、造材したときに十二尺ものが八丁も採れた。秋田木材会社が十三年間、毎年五、六万石の造材を続けたが、飯場を移したのは三年間にわず か一回で、それも択伐作業の現場だった」

と担当区主任の思い出を語る局厚生課の松本秀男さん。

私にとって、極めて印象的だ。

 

 納沙布灯台から眺められる秋勇留(あきゆり)、水晶などの島は、そっくり飛行場にしたら良いほど何もない平坦な島で、奧に森林を抱える千島の前景としてはわびしい限りだ。

 そして、こんなイメージが、北方領土返還の呼びかけに対し、水産業関係がともすれば前に押し出されがちで、このことは、長い間林業人の誇りに生き抜いてきた私にとって、どうにも耐えられない次第である。

 北方領土返還に向け、千島の国有林についても、そのイメージアップに努めてほしいものである。

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第7章 あの頃の思い出 第36話「ああ硫黄島」

 戦後、日本の国土から実質的に除外されたにもかかわらず、国有財産として常に統計書の財産目録に記載されている土地に、沖縄、千島、小笠原諸島国有林がある。この中の一つである小笠原諸島が、この度、米国から返還されることとなったが、返還後の帰属がもと通りになるとすれば、島の国有林は東京営林局の管轄となる。

 昭和四十三年一月、返還後の小笠原諸島のあり方を巡って調査団が派遣されることとなり、幸いこれに参加する機会を得た。上陸調査したのは父島、母島、硫黄島であったが、ここでは、日本兵二万一千人、米軍兵五千人の尊い命を奪った太平洋最大の激戦地である硫黄島について述べることとする。

 

硫黄島沖合に到着したのは一月二十五日の早朝。艦上から弔砲十発とともに、長い黙祷を捧げる。薄暗い朝の洋上に、硫黄島が浮かんで見える。

 本船からランチ、そしてボートへと乗り移り、戦後初めて硫黄島に上陸した日本人の一行として、硫黄島の砂の上を歩く。島の六、七割までが砂地であり、硫黄の臭いが強く噴煙も見える。

 赤い花をつけた内地のマツバボタンに似たもの、ペンペン草やハイカヅラみたいなものが散見される中、一面に見えるのはギンネムである。日米激戦時には恐らく一本一草もなかったであろうから、島の植生推移を調査するためには好適な資料となる。

 

 硫黄島には約三十名の米兵が駐屯している。滑走路の長さは二千六百メートルで、立派な飛行場である。

 「硫黄島は、グアム、沖縄、東京、ハワイの四点を飛行する場合に、給油、避難という点で重要な位置にある」と米軍が説明する。

 硫黄島は海抜六十メートル程度の平坦地で、高さ百六十六メートルの擂鉢山が南端にぽつんとそびえている。日本軍が最初に攻撃を受けた山であり、頂上には星条旗がはためき、その土台石には米軍海兵隊の勇気をたたえた横文字が見える。

 この島の激闘がいかに凄惨であったか、この擂鉢山に登ってみればよく分かる。何万発の砲弾が撃ち込まれたか知る由もないが、不発弾が相当数処理されないままにあることから、舗装道路以外は歩行禁止とされている。

 

 島の面積二千ヘクタールのうち、国有林は千三百ヘクタールを占めている。もとより林業らしい林業は営まれていないが、天然林の保護林が学術参考林として存置されていた。恐らく砂漠の中のオアシスにも似た存在であっただろうが、今は見るかげもなく、直径二メートル程度の根株が散乱するのみで、砲撃の苛烈さを忍ばせる。 

 獣は何もいない。ちどり、はやぶさ、めじろが飛び回っている。

 真水は地下水からは望めない。滑走路を流れる雨水を集めたり、天水の溜池を作って飲料水に供している。

 

 硫黄島のすべてのものが無心に生きている。平和郷だと思う。だが、今のままの硫黄島ではあまりにも寂しい。戦争の傷痕が人間の安らぎをさまたげているように思われるからである。

 山官からは、山官らしい着想しか生まれない。

 人間、動物、植物が混然一体となり、約三万の英霊を慰めるために、出来れば「硫黄島の森」を、その昔、保護林のあった場所でもよい、ささやかな森として造成したい。

 これが硫黄島調査団への参加の巡懐であり、結びの言葉である。

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第7章 あの頃の思い出 第35話「最後の筏流し」

 日本でただ一箇所と言われる、米代川の筏流しの歴史は古い。

 記録によると、豊臣秀吉伏見城を築く際、南部藩に秋田スギの供出を命じたが、この時、伐採した木材を筏に組んで米代川を流し、今の能代市から沖出して敦賀港に運んだとされている。

 明治に入ると河川工事が進み船の航行範囲が広まることから、筏流しのみならず、米や鉱石などを乗せた船が米代川を上下し、大変なにぎわいを呈していた。

 しかしながら、ダム建設に伴う水量低下やトラック輸送の発展などにより、全国各地の筏流しは次々と姿を消し、最後まで残されていた米代川の筏流しも、奥羽本線が開通した昭和三十八年の翌年、最後の時を迎える。

 朝六時三十分。

 最後の筏がつながれている川べりには、一面モヤが立ちこめている。霜柱を踏みながら水際に降りると、冷たい川風になぶられ、思わず身震いがするほど寒い。

 アオリとサオを担いだ筏流手たちは、川岸に作られた川神様を拝むと、次々と筏に乗り込む。

 最後なのだ。心なしか、筏流手たちの顔が緊張している。

 最後の筏が能代営林署仁鮒事業所を出発したのは、昭和三十九年十一月二十八日。

 筏流しは毎年四月中旬から十一月末まで行われるため、筏流手にとって、この日は、今年一年の仕事納めの日でもある。

 

 「オーイ、出すぞ」

 組頭の掛け声で、筏流手が力を入れてアオリを漕ぐと、八枚の筏はいっせいに岸を離れた。川岸では子供たちが盛んに手を振っている。

 川中に出ると、筏の速度はぐんぐん増した。水面のゴミをどんどん追い越し流れる。筏は間もなく、川底から岩がぼこぼこ突き出ている難所にさしかかる。

 「股大っきく開いて、前向きに立つんだ」

 おっかなびっくりで筏の上に立っている私を、筏流手のおっさんがどなる。一段と速度を増した筏は、やがて米代川随一の難所に差しかかった。筏の底が岩にあたり、ドドッと激しい音をたてる。

 丸太の振動が身に伝わり、私は青くなった。筏の流れが二、三メートル狂うと大きな岩に突き当たり、丸太を組んだゴボナワが切れてバラバラになるからだ。私の乗った筏は無事に難所を過ぎた。

 「これでひと安心だ」

 筏流手は緊張した顔に笑いをうかべる。

 筏の大きさは巾四メートル、長さ二十メートルである。スギ丸太の木口を流れの方向に並べ、藁を三つ組にした縄で筏を組む。終着地点の能代港は日本海からの海風を直接受け、特に、午後には流送に対して逆向きに強く吹くため、筏は午前中に能代に到着するよう流さなければならない。

 このため、二十四キロメートル上流にある仁鮒事業所の出発時刻は早朝となる。

 切石部落に入ると、米代川にかかる鉄橋を大阪行きの特急白鳥号がごう音とともに通過した。

 橋脚を過ぎて他の岩にも突き当たる心配がなくなると、筏流手は筏の上にグミを敷き、たき火をした。

 強風にあおられて、威勢よく燃える火を囲みながら朝食をとる。空はどんよりと曇っているが、次第に暖かくなってきた。

 やがて常磐部落に差しかかると、川幅が広くなり、筏の流れもいくらかゆっくりとしてきた。筏が通ると護岸工事をしていた二十数人の男女が働く手を止め、いっせいに手を振る。

 「今日で筏も終わりだナ。これからは、川を流れるのはゴミばっかしだから寂しくなるじゃ」

 頬っかむりした男が叫ぶ。

 「俺らも寂しいじゃ。そごにいる美人のメラシコ(娘)たちを、これがらは見らねがらナ」と、東藏さんが叫び返すと

 「いい年して、助平だこと」

 若い娘がきんきんした声で叫ぶ。川岸と筏の間を嬌笑がわたる。

 米代川を下る筏の姿はのどかな光景である。

 しかしながら、春の雪解け水は急流となって筏を矢のように流し、きしむ丸太と丸太の間に足を挟むなど怪我が絶えない。また、夏には日陰のない川面で直射日光に照らされ、秋は横から殴りつける氷雨に容赦なく叩かれる。

 山仕事のうち、一番難儀するのは筏流しであるが、一番楽するもの筏流しだという。

 水量も適当で、しかも天気が良いと筏は手をかけなくても気持ちよく流れる。

 そんな時は、唄の一つでも出てきそうであるが、万事が天気任せの仕事で、こんな日は一年のうち数えるほどだという。

 

 鶴形を過ぎるころから、雨が降り出してきた。

 同時に、日本海から吹き上げてくる風も強まり、筏は激しく揺れはじめた。

 立っていると振り落とされそうになるので、私はトビを打つと、それにつかまってしがみつくようにしている。そんな私の傍で、筏流手は敏速に動く。筏の揺れが大きくなるとゴボナワが切れるため、新しい縄で結い直さなければならない。

 周りの山々は雨に煙ってぼんやりとし、聞こえるのは激しい波音だけ。昼食を取る間もなく、アオリを漕ぐ筏流手の顔には疲労が浮かんで見える。

 筏の上のたき火も消え、アノラックを通した雨が肌に伝わり、私は寒さにふるえた。

 筏流しの速さは水量や風によって決まる。

流れが速く、風も穏やかな日は、昼までに終着地の能代に着いてしまうが、流送中に事故があったり、天候が急転した場合には、途中で筏を係留して、翌日、その場所から流送を再開することとなる。 筏流しの仕事は、家を出たら最後、いつ帰ってくるのか分からない。まさに自然相手の仕事である。

 そして、最後の筏流しは、残念ながらスムーズには終わらなかった。

 

 午後一時五十分、筏は米代川から分かれた。これからは旧檜山川伝いに貯木場まで流すのだが、風雨がいっそう強まった上、時間も遅くなったので岸に筏をつなぐ。

 明日、また、ここから流していくのである。

 「後ろ髪を引かれるような、最後だナ」

 筏流手が心残りげに言う。

 びしょ濡れになった筏流手は、丸太を蹴って岸に上がると、待っているバスへと急ぐ。その足取りはひどく疲れている。間もなく全員をのせたバスは、仁鮒に向けて出発した。

 雨の中に残された筏は、ときどきゴオッとくる突風にあおられて、波形にゆれている。

 雨はいつのまにか、みぞれに変わっていた。

 

 消え去った筏流しの情緒を懐かしんで、昭和四十年八月に筏祭りが催されたが、これは三年間続いて中止となった。

 そして、その後は、昭和四九年の能代港開港記念事業の一つとして筏祭りが行われただけで、筏は米代川からすっかり姿を消してしまった。

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第7章 あの頃の思い出 第34話「金原明善翁の事績を聞く会の記録」

 この金原明善翁に関する講演速記録は、水窪営林署の署長室の金庫に保管されていたものである。

 金原明善の瀬尻植林事業に明治二十三年より業務主任として参画し、その後も、金原明善の片腕として活躍された鈴木信一さんが死去の前年(昭和十七年)に話されたもので、生々しい実感があり貴重なものである。

 

(遠藤氏)

本日はご多忙中、誠に有難うございました。実は瀬尻御料林を中心とした金原翁のお話を伺いたいのですが、最初は当時の模様をお願いします。

(鈴木さん)

瀬尻の山へ入った動機は天竜川の堤防のことからです。天竜川は毎年氾濫していつも川の東か西かに切れる。一番ひどかった慶応六年には七度も決壊し、田畑全部砂利になってしまいました。こうなると大地返しといって砂利を下に入れ、土を上にして田畑を作ったものです。

大名時代には氾濫のため田畑が荒れると米か金をくれましたが、明治時代になってからはこれももらえず、大変困りました。そこで、金原翁は、当時の勢力のある方々によく請願に出かけました。岩倉卿には二度ほど嘆願に行きましたが、結局、あちらこちら頼んでみてもどうにもなりませんでした。金のある者は出し合ってみんなで堤防を直したらどうかとなりましたが、もともと返ってくる金ではないので誰も賛成する者がありません。そこで明善翁は一人で資産全部を投げ出し堤防を作設することを決心したのであります。

ある時、山岡鉄舟がこの話を聞きわざわざやって来まして、明善翁に「資産全部を出してしまうらしいが気の毒だ。いろいろ困ることもあるだろうから、せめて自活の費用だけはのこしておいたらどうか」と言いましたが、金原様は決心が定まっていて「お言葉は大変有り難いが、この近くの中野町という所に人力車夫がいる。この車夫が他の車曳きでは行かないような所へでも安い賃で働いて、酒飲みの親が残した借金も全部返しました。私は親の借金は一文もないし、もしどうしようもなければ車曳きになるつもりです」と申しますと、山岡様が膝を打って「それほどまでの決心ならおやりなさい」と喜んでくれたということです。

金原翁はいつも言っていました。

「国家のため貧乏になったのなら、これ位愉快なことはないじゃないか」

と、実にこのようして堤防構築の段取となったのであります。

また、ある時の明善翁は、「大久保卿は実に威厳のある方で、あの位恐ろしい方に会ったことはない」と申しておりました。

金原様が大久保内務卿へ、天竜川の氾濫防止の陳情に伺った時、ドアを開けて入ると中央の机に向かっておられ、その威厳に身体がブルブルと震えたそうです。

 こんなことでは駄目だと思い近づき、右の旨申し上げると、

「私は日本の内務卿だ、日本には天竜川のような川が十四あり、天竜川ばかりやる訳には参らぬのだ。私は天竜川の内務卿ではない」と。

 ここでさすがの金原様も、これほどまでに頼んでいるのに、と怒りが込み上げ、よし、駄目なら全財産投げ打って自分一人でやると、今までいくらかフラフラしていた気持ちがはっきりと定まり決心がついたのです。

「それなら私の資産全部を投げ出してやるから、この堤防構築の件、お許しを得たい」と申しますと、大久保卿はただ一言、「そうか」と言われただけだったそうです。

大久保卿にしてみれば、金原様が本物かどうか、たかりではないのか、その辺りの見分けがつかなかったのでしょう。

その後、静岡の役人が、大久保卿の命で金原様の言ったことが本当かどうか調べに来て、「これは本当だ」ということで、堤防構築工事を国が金原様から引き継いで実行することになるのですが、このあたり、明治の偉大なる両人のやりとりがなかなかおもしろうございます。

 この時、金原様は財産を褌(ふんどし)一枚まで残らず克明に書き出し、この時の全財産が約七万円でした。

金原様は全財産を売ったあと、堤防の上にバラックを建て、そこへ移り住み改修工事に奮励されましたが、生涯のうち、このころが金原様が最も情熱を燃やし、また精根を傾けた日々だったようです。

ちょうど明治十八年に土木局ができ、河川の改修工事は民間に任せておくべきものではないと、全部土木局でやることになったので、金原様は工事全部を土木局に引き渡したのであります。これは、大久保内務卿の意志が動いて国で実行することになったのですが、問題は金をどうするかということになりまして、六万八千円は金原様のところへ戻った訳でありますが、これについても、ひと悶着ありました。

金原様は、いったん男が国にあげたものをもらう訳にはいかないと、「東京に返しに行く」と言って頑張られたようでありますが、「金はいくらでも使い道はある、あまり偏屈な事は言わなくても良いではありませんか」と慰められ、金原様もその気になりました。

 しかし、「国家に捧げた金であるから私すべきものではない、何とか国家のお役に立てたい」と思っていたところ、中村弥六先生のお話では「山に木を植えてもらった方がよい、水を治めるには山を治める方がよい」というので、このお金が瀬尻の山の植林になったのであります。  

 そして、木を植える場所がどこにあるかということになり、地八峠を見出して、ここへ植えることに決め、明治十九年から十五箇年で植栽手入れして国家へ返納するという願書を出しました。目的は、金を如何にして国家のために用いるかということで、山へ木を植えることになったのであります。

 山へ植林することは急な思いつきではなく、もとの動機がありました。明治七年、土木寮に蘭人リンドウという人が雇われており、この人が天竜川を見た時、舟で天竜川を西川付近まで見たようでありますが、その時、リンドウは

「これでは川が荒れるのは当然だ。あのように山の中腹に人家、畑があっては駄目だ。このような家は北海道へ移せ。それでなければ天竜川は治まらない」と申しました。

 その当時の金原翁は外国人は馬鹿なことを言うものだと、たいして気に止めませんでしたが、中村弥六の話を聞き、また、自分で植栽することになって、このリンドウの言ったことに気がついては「なるほど」と山へ植林することを深く思い込んだのであります。

(遠藤氏)

天竜川の両岸の、その当時の林相はどんな具合でしたか。

(鈴木さん)

 瀬尻御料林の最初の林相はモミ、ツガもありましたが、大部分は雑木でした。高いところにはブナの大木もありました。また、地八峠の方面は全部かや野でした。

(遠藤氏)

植栽は吉野にならってやられたのですか。

(鈴木さん)

 私どもは吉野へ行き、また、熊野の方を見てきて密植しました。最初は一町歩八千本、その後は坪植で、一町歩三千本から四千本ぐらい植えました。

(遠藤氏)

 金原翁は時々山へ来られたのですか。

(鈴木さん)

 植付の頃来られました。その頃は金原銀行の方が主で、一週間も山にいないくらいでした。秋の九月、十月頃にも一度、年に二回ぐらい来られました。

 下刈は毎年やるとよいが、なかなか出来なくて長岡君とよく議論しました。二十年後に勝負しようとなったこともあります。私は、下刈をやりたいが金が足りなくてなかなか出来ないので、一本位枯れても間伐するのだから、このままにして置いた方が良い・・・今ではそこが立派な木になっていますが、下刈りはなかなか出来なくて、ほとんど手を抜いた始末です。

 

 この記録は、当時の帝室林野局の水窪出張所に勤務していた山下技手により書かれたものである。また、文中の遠藤氏とは当時の水窪出張所長であり、この記事について色々とご指導頂いた。

 瀬尻国有林に関する者にとっては耳新しいものばかりである。

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第7章 あの頃の思い出 第33話「森林鉄道」

 明治中期の木材搬出は、特殊材以外は川を利用した管流しによったという。

 木材を山元で割り、寸甫や穂太木に採材して、堰き止めた水と一緒に流し、下流に組んだ矢来に漂着させる方法だった。

 また、冬季には人橇や馬橇によったが、明治四十年には仁鮒から軌道が敷かれ、トロリー(貨車)による手押運材が開始されるようになると、大径材をそのまま製材工場に供給出来るようになった。男女二人が一組となって手押しで走るのが楽しみで、希望者が多く断るのが大変だったという。

 

 大正五年には森林鉄道に改修され、蒸気機関車が杉丸太を満載した貨車を引いた。まだ、電灯もない時代だった。

昭和二十八年には能代営林署管内の軌道延長が六十八キロメートルにも達し、この頃が森林鉄道の最盛期であった。

 昭和三十九年には能代濁川間のトラック道が開通して仁鮒森林鉄道の田代支線が廃止となり、四十年には生産事業終了とともに仁鮒、濁川間も廃止となった。そして、四十四年にはトラック道が釜谷部落まで延長されると、五十四年にも及ぶ森林鉄道がその幕を閉じたのである。 

 森林鉄道の最初の機関車は、ドイツのアーサーコッペル社製のものが購入された。

 営林署に経験者がいないため、最初の運転では国鉄から助手を迎えて運転手とした。また、火夫には、海軍機関兵として経験のある者を採用したという。この外にも、制動手、薪のべ手がいて総員十二名だったが、誰もが文明の機関車に乗務することを誇りとして、実直に勤務した。特に、山仕事以外に見るべき仕事のないこの地区では、乗務員になれば年間継続して勤務出来るし、作業は軽労で通勤、その上被服が官給という、全ての面で条件が良かった。

 

朝の仁鮒停車場。発車時刻は六時だが、山行きの物資と作業員、これに便乗者が加わって、牽引する車両付近は朝早くから混雑する。火の粉が飛びかからない後尾車両に皆が急ぐからである。

 薪を焚く機関車からは、自然と火の粉が飛び散る。運悪く、機関車の近くに乗車してしまうと、帽子や背中に焼け穴が出来てしまうし、春秋の乾燥期には、この火の粉でよく山火事が発生した。

 毎年春先には、こうした山火事を防ぐため、軌道の両側、幅六メートルほどを地掻きして防火帯を作った。運転手は見通しが良くなり、保線手は路面の乾きが早く助かったが、担当区主任にとっては忙しい時期と重なり、また、費用もかさむため悩みの種だったという。

 朝五時には「ピー」という汽笛を一分間ずつ二回鳴らし、作業員に出勤一時間前であることを知らせる。この汽笛は、二ツ井町をはじめ、荷揚場、切石までも聞こえ、付近の住民にとってなくてはならない貴重な時報として、昭和二十年頃まで続けられていたという。

 列車の乗務員は運転手、火夫、制動手、薪くべ手の四名であるが、燃料の積込や給水は仁鮒以外の各所でも行われ、また、物資や食糧の積み卸し、新聞・文書の配達までご用聞きのような仕事も多く、どの職務も忙しかった。

 また、木材を満載して急勾配を下降するときの乗務員は真剣そのものだった。運転手は前後を注視しながら砂を散布し、火夫はブレーキレバーを押して機関車を制動し、薪くべ手は薪貨車を制動し、制動手は後尾車両を足踏みブレーキで制動し、四者一体となって入念に下降する。一列車は八両編成で、これにブレーキ貨車が加わる。雨天と秋露の頃は、下降し始めの時に油断するといきおい速度が増し、全員が真っ青になることもしばしばあったという。こうした時、皆の祈りが神に通じるのか、脱線するのは貨車だけで、機関車は奇跡的に無事であった。

 

 保線手は、各保線区毎にレールの天地を直し、排水溝を堀り上げては路肩を除草し、砂利を散布してシャベルで踏み固める。これを夏季の間、ずっと行う訳だが、目標は「国鉄なみの美しさ」であり、「あの保線区は優秀だ」と言われるよう、内心では保線区同士で競っていたものである。

冬季は、保線手が二、三箇所に集まり路体の改良工事を行った。路体の切り取りや盛立て、曲線の切り取り、橋梁の掛け替えなどを全部、保線手だけで行うのである。

 辛かったのは、川に入っての砂利採取だった。川舟に三人が乗り込み、薄氷の下から砂利をすくい上げ、山ぎわの集積場へ背負い上げるのだが、寒さは身に凍みるし、波が高くて舟は浸水するしで大変な作業だったという。

 

 このような苦労もあったが、春から夏にかけては山菜に恵まれこれを貯蔵し、秋には茸が豊富で家庭をうるおし、冬には猟をして肉食にも不自由しなかった。このため、保線事業所の食費はいつも安かった。

 また、お嫁さんを乗せたときとか、大切な荷物を積んだときは、乗務員にも礼として酒や肴が届いたという。これが全員でゆっくり飲めるだけの量になると、その都度、飲み会を催した。夕刻、機関庫からいい匂いが流れてくると、必ずこの催しだったそうである。

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第7章 あの頃の思い出 第32話「オホーツク海の回想(二)」

昭和十八年、施業案の編成で間宮海峡に面した樺太の泊居事業区に出張した。晴天に恵まれ、あと数日で概況調査が終わろうとした六月三〇日の黄昏時、下流の方からブウー、ブウーと熊よけのラッパ音が聞こえてきた。

 戦争が次第に激しくなり、友人や同僚が次々と応召していく最中のことあり、自分の応召の知らせではないかと思ったところ、果たせるかなその通りであった。王子の山林部の方が二人で、二十八キロもの下流から川を溯って連絡に来てくれたのである。「おめでとう」と言われたが、調査途上で班員を残して応召することが心配であり、「困ったことになった」と気持ちは複雑だった。

 

翌月三日に旭川第七師団に入隊。その後、札幌、根室へと転属し、十九年春には札幌の北部軍司令部に戻ると、小樽港から将兵三千人とともに千島守備のため択捉島の単冠湾に入港した。港は太平洋に面し、北方漁業の拠点としてのみならず、ハワイの真珠湾攻撃の基地となったところである。

 私の小隊は択捉島に上陸したが、同年兵の多い他の一個小隊はウルプ島に上陸するらしく、私達とは手を振りながら別れた。ところが、その船がそれから二時間後に、択捉島とウルプ島の中間海域で、米国潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没したのである。 

千六百人近い将兵が、流氷漂うオホーツクの海で永久に帰らぬ人となった訳であり、誰の目にも数時間前に別れた戦友の姿が浮かび、あふれる涙を抑えることが出来なかった。

 

 ある冬の日、軍の真空管部品を受け取るため、太平洋に面したトシルリの町から林務署のある紗那を通り、天寧の北部軍司令部に行ったことがある。往路百四十キロメートルの雪中行軍である。

 一日目は山を越えてオホーツクに面したトウロの町に行き、二日目はスキーを担ぎながら次の宿泊地に向かう。波しぶきをかぶりながら岩場を通り抜けると、次は砂丘で、気の遠くなるような長さであった。冬の太陽はすべるように地平線に落ち、頭上の岩の上では羆の遠吠えが聞こえた。食物がなくて穴に入れないのか、不思議な現象であった。

 三日目はだらだら登りの山道を行くと、エゾマツ・トドマツの壮齢林がみられた。トドマツの北限だろうか、灰白色の美しい肌が印象的であった。背丈の低いダケカンバ・ハンノキ・ナナカマドの混交林が続くとやがて峠となり、眼下には紗那の町が見えてきた。翌朝には林務署を訪ねてみたが、男子職員の姿は見られず、女子職員が五、六人いただけである。

 そこから先は起伏の多い山道で、トドマツ・エゾマツ・広葉樹の混交林がかぶさるように続いていた。スキーに慣れない隊員ばかりなので、のろのろと行進を続ける。山間の駅逓の中では寒さがひしひしと伝わり、食事もそこそこ毛布にくるまって眠ろうとするが、体がなかなか温かくならず、うとうとしていると山鳴りが聞こえてくる。

翌朝は、再び混交林の中を前進するが、樺太庁にいた頃の冬山登山の経験がここで役に立つとは思わなかった。連日の行軍で隊員は疲れて足も重く、スキーも滑らない。宿に着くと全員のスキーにワックスを塗っておくが、疲れて夕食はあまり口にしなかった。

 

 出発して七日目、十時頃に目的地である天寧に着き、直ちに北部軍司令部に出向する。

 到着の申告をすると、参謀は百四十キロのスキー行軍を行ったことについて、感激といたわりの言葉をかけてくれた。司令部でも初めてのことだったので、分隊長に行軍上の問題点を詳しく報告し、今後の作戦の参考とするという。

 司令部から真空管部品を受け取ると、翌朝、帰路につく。復路はコースが分かっており、晴天が続いたため楽な旅であった。重大な任務を果たした感激は忘れることが出来ず、幸い、真空管は一個の破損もなかったと報告され、ほっとする。

 八月一五日、終戦の勅令が発せられたことを隊長が発表する。情報部隊であった私の小隊は、戦果の裏側をいち早く察知していたので、「来るものがきた」と思い、それほどの動揺は受けなかったが、師団長は毛布にくるまり慟哭していたという。

 夜の十時頃、私たち北海道出身の応召兵五人が指名され、今晩、民船で北海道へ帰還することが分かった。民間最後の引き揚げ船で、乗るのは婦女子と子供が大半であった。

 午前零時頃、灯りを消して択捉島の単冠湾を脱出する。船の傷みがひどく船倉に海水が浸入してくるので、私たち五人はバケツの手渡しで汲み出しを続けた。

 択捉島国後島の中間海峡で、突然、船のエンジン音がスーっと消える。船長と機関長が油だらけになってエンジンの修理をしている姿が見られた。船内の人々は、不安な眼差しをじっと夜明けの海上に向けている。

 それから二時間ぐらいの間、船は潮流に乗ってあてもなく流されていた。機上掃射が心配されたが、幸いにして海霧が発生して見通しが悪くなり、ほっとする。

 エンジンが直らないのではと、やりきれない不安感がよぎった時、バンバンとエンジンが音をたてて船体を揺り動かした。船上の人々は思わず歓声を上げる。国後島の島影を縫うようにして航行し、やがて色丹島水晶島を過ぎると、船足を早めて一路、根室港に向かう。

   

 夢にまで見た帰郷が現実となってきた。双眼鏡で眺めると、港には漁船がひっそりと係留されていた。その背後に連なる町並みは、米軍の空爆を受け灰色に焼き尽くされており、敗戦の傷の大きさにやり切れない思いであった。

 北海道の大地を踏みしめると涙があふれてきた。

 私たち五人の戦友は、ただ、黙って抱き合って泣いてしまった。

 

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第7章 あの頃の思い出 第32話「オホーツク海の回想(一)」

 昭和四十年四月の異動で、オホーツク海に面した斜里営林署に勤務することとなった。

 考えてみると、オホーツクの海は、私にとって切っても切れない糸で結ばれているように思えてならない。そこで、この思い出の糸をたどってみることにする。

 

 昭和八年に学校を卒業した翌春、未開の北の果ての地、樺太に渡り、樺太庁に勤めることとなった。

 当時の樺太庁は内務部・農林部・警察部の三部からなり、農林部は林務課・林業課・植民課・土木課に分かれていた。私の所属は林業課施業案係であったが、基本図の作成や林相区分図等の図化に航空写真を使用したため、短期間に全島の森林計画を樹立することが出来た。課内は大学、専門学校出の二十代の若者が占めており、活気にあふれ庁内の人気を独占していた。

 

 昭和十一年十月、樺太の中央部を横断した台風により、各地で林業史上最大といわれる風倒木が発生した。

 当日は、午後から生暖かい南風が急に強くなり、台風は豪雨を伴いながら森林を一包にして大きくゆさぶった。カバ、トドマツ、エゾマツの枯損木の梢端がちぎれて飛び、ちょうど私は施業案編成調査で真岡町に出張中であったが、天幕が飛ばされ、増水した谷川の水で調査用具がほとんどが流されてしまった。生きた心地もせず、エゾマツの大径木の根元で、濡れ鼠のようにがたがた震えながら一夜を明かしたことを覚えている。

 朝になってみると、周囲の生立木はみな将棋倒しとなっており、不気味な姿を見せていた。この風害で全島の森林に二千万石の被害が出たが、その後、被害跡地ではヤツバキクイムシ、トドマツキクイムシなどの加害も始まり、これが昭和十八年頃まで続いてその被害は三千万石にのぼったと言われている。

 

 この風害が縁となって、昭和十三年七月、私は、最も被害が多かった元泊林務署に森林主事として転任となり、被害木の処理にあたった。この林務署の年間売払い量は五百万石と膨大で、当時の北見営林局の年間売払い量を遙かに上回っていたことからも、台風の被害がいかに大きいかが分かる。

元泊林務署長は北大出身の庄司という人で、勅任官で樺太庁の三部長と同格であった。本庁の監査があっても上席は譲らなかったと言われており、署員にも厳しく怖い存在であった。

 昭和十六年十二月の日米開戦のニュースを聞いたのは、遠古円の天然更新事業所である。ラジオが捉えたアナウンサーの興奮したかすれ声がひびき、身のひきしまるような一瞬であった。作業員のどよめきとともに、事務室はたちまち大騒ぎとなり、一同、茶わん酒で万歳を叫んだことも昨日、今日のように思い出される。

 北樺太を源とする、河口幅三キロメートルもあろうかと思われるホロナイ川の砂丘の上に、日本最北端の国境の町、敷香(シスカ)がある。人口二万人余の町が新たに作られていく姿は、青年の逞しさを感じさせる。漁業、林業、工業の町として活気にあふれており、ホロナイ川の流域五十万ヘクタールから伐り出された丸太は流送で敷香まで運ばれ、そこで船積みにされたり、パルプ工場へと移送される。東洋一と称された王子の国策人絹パルプ工場からは、雄大なホロナイ川を背景に、黒煙がもくもくと吐き出されていた。

 この川の彼方には、平和なオタスの森があり、ツーグス族、ギリヤーク族、オロッコ族などの先住民族が生活している。彼らは、シャケ、マス、アザラシ、トド、オットセイなどを捕まえては食糧とし、また橙油、衣料や器具に加工して暮らしているが、力ある種族は、トナカイを数百頭飼い慣らしては天然の野草を求めて移動する、いわゆる遊牧の民であるという。

 

 ある日、ホロナイ川上流のツンドラ地帯の森林調査を行っていたところ、緑の草原の中央に天幕村を発見した。周囲には多くのトナカイが群れを作り、草を喰んでいる。

 恐る恐る近づくと、ムウムウのような色どりの衣装をまとったオロッコ族の夫婦が、私たちを迎え入れてくれた。和人の若い山役人の訪問が、非常に嬉しかったようである。幕舎の中に入ると、十五センチ程度に切った若いトドマツの針葉が重なるように敷かれており、清潔な青畳を連想させた。その上には毛皮が置かれ、調和した美しさを現している。

 歓待の記として最初に出されたものはエゾコケモモの果実酒で、淡泊な甘酸っぱい味であった。次に黒パンとチーズが出されたが、食べてみると煙の臭さが強く、苦みが感じられた。トナカイの乳は草の臭いが強く、飲み残してしまった。

 先住民の彼等は、トナカイを家畜とし、その乳からバター、チーズ、薫製肉を作り生活している。近代文明が、このような素朴な暮らしをしている少数民族を圧迫し、滅ぼしていくのかと思うと、若い私の心には言い知れない寂しさと、憤りがこみ上げてくるのを禁じ得なかった。

 夕方近くなったので別れを告げ帰途についた。彼等は、私たちの姿が見えなくなるまで見送ってくれた。振り返ると、緑の草原の中の幕舎が、夕映えに天国の城のように美しく描き出されており、この時の印象は、一生、私の心の中に美しい思い出として刻まれている。

 

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