昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第7章 あの頃の思い出 第33話「森林鉄道」

 明治中期の木材搬出は、特殊材以外は川を利用した管流しによったという。

 木材を山元で割り、寸甫や穂太木に採材して、堰き止めた水と一緒に流し、下流に組んだ矢来に漂着させる方法だった。

 また、冬季には人橇や馬橇によったが、明治四十年には仁鮒から軌道が敷かれ、トロリー(貨車)による手押運材が開始されるようになると、大径材をそのまま製材工場に供給出来るようになった。男女二人が一組となって手押しで走るのが楽しみで、希望者が多く断るのが大変だったという。

 

 大正五年には森林鉄道に改修され、蒸気機関車が杉丸太を満載した貨車を引いた。まだ、電灯もない時代だった。

昭和二十八年には能代営林署管内の軌道延長が六十八キロメートルにも達し、この頃が森林鉄道の最盛期であった。

 昭和三十九年には能代濁川間のトラック道が開通して仁鮒森林鉄道の田代支線が廃止となり、四十年には生産事業終了とともに仁鮒、濁川間も廃止となった。そして、四十四年にはトラック道が釜谷部落まで延長されると、五十四年にも及ぶ森林鉄道がその幕を閉じたのである。 

 森林鉄道の最初の機関車は、ドイツのアーサーコッペル社製のものが購入された。

 営林署に経験者がいないため、最初の運転では国鉄から助手を迎えて運転手とした。また、火夫には、海軍機関兵として経験のある者を採用したという。この外にも、制動手、薪のべ手がいて総員十二名だったが、誰もが文明の機関車に乗務することを誇りとして、実直に勤務した。特に、山仕事以外に見るべき仕事のないこの地区では、乗務員になれば年間継続して勤務出来るし、作業は軽労で通勤、その上被服が官給という、全ての面で条件が良かった。

 

朝の仁鮒停車場。発車時刻は六時だが、山行きの物資と作業員、これに便乗者が加わって、牽引する車両付近は朝早くから混雑する。火の粉が飛びかからない後尾車両に皆が急ぐからである。

 薪を焚く機関車からは、自然と火の粉が飛び散る。運悪く、機関車の近くに乗車してしまうと、帽子や背中に焼け穴が出来てしまうし、春秋の乾燥期には、この火の粉でよく山火事が発生した。

 毎年春先には、こうした山火事を防ぐため、軌道の両側、幅六メートルほどを地掻きして防火帯を作った。運転手は見通しが良くなり、保線手は路面の乾きが早く助かったが、担当区主任にとっては忙しい時期と重なり、また、費用もかさむため悩みの種だったという。

 朝五時には「ピー」という汽笛を一分間ずつ二回鳴らし、作業員に出勤一時間前であることを知らせる。この汽笛は、二ツ井町をはじめ、荷揚場、切石までも聞こえ、付近の住民にとってなくてはならない貴重な時報として、昭和二十年頃まで続けられていたという。

 列車の乗務員は運転手、火夫、制動手、薪くべ手の四名であるが、燃料の積込や給水は仁鮒以外の各所でも行われ、また、物資や食糧の積み卸し、新聞・文書の配達までご用聞きのような仕事も多く、どの職務も忙しかった。

 また、木材を満載して急勾配を下降するときの乗務員は真剣そのものだった。運転手は前後を注視しながら砂を散布し、火夫はブレーキレバーを押して機関車を制動し、薪くべ手は薪貨車を制動し、制動手は後尾車両を足踏みブレーキで制動し、四者一体となって入念に下降する。一列車は八両編成で、これにブレーキ貨車が加わる。雨天と秋露の頃は、下降し始めの時に油断するといきおい速度が増し、全員が真っ青になることもしばしばあったという。こうした時、皆の祈りが神に通じるのか、脱線するのは貨車だけで、機関車は奇跡的に無事であった。

 

 保線手は、各保線区毎にレールの天地を直し、排水溝を堀り上げては路肩を除草し、砂利を散布してシャベルで踏み固める。これを夏季の間、ずっと行う訳だが、目標は「国鉄なみの美しさ」であり、「あの保線区は優秀だ」と言われるよう、内心では保線区同士で競っていたものである。

冬季は、保線手が二、三箇所に集まり路体の改良工事を行った。路体の切り取りや盛立て、曲線の切り取り、橋梁の掛け替えなどを全部、保線手だけで行うのである。

 辛かったのは、川に入っての砂利採取だった。川舟に三人が乗り込み、薄氷の下から砂利をすくい上げ、山ぎわの集積場へ背負い上げるのだが、寒さは身に凍みるし、波が高くて舟は浸水するしで大変な作業だったという。

 

 このような苦労もあったが、春から夏にかけては山菜に恵まれこれを貯蔵し、秋には茸が豊富で家庭をうるおし、冬には猟をして肉食にも不自由しなかった。このため、保線事業所の食費はいつも安かった。

 また、お嫁さんを乗せたときとか、大切な荷物を積んだときは、乗務員にも礼として酒や肴が届いたという。これが全員でゆっくり飲めるだけの量になると、その都度、飲み会を催した。夕刻、機関庫からいい匂いが流れてくると、必ずこの催しだったそうである。

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