昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第7章 あの頃の思い出 第35話「最後の筏流し」

 日本でただ一箇所と言われる、米代川の筏流しの歴史は古い。

 記録によると、豊臣秀吉伏見城を築く際、南部藩に秋田スギの供出を命じたが、この時、伐採した木材を筏に組んで米代川を流し、今の能代市から沖出して敦賀港に運んだとされている。

 明治に入ると河川工事が進み船の航行範囲が広まることから、筏流しのみならず、米や鉱石などを乗せた船が米代川を上下し、大変なにぎわいを呈していた。

 しかしながら、ダム建設に伴う水量低下やトラック輸送の発展などにより、全国各地の筏流しは次々と姿を消し、最後まで残されていた米代川の筏流しも、奥羽本線が開通した昭和三十八年の翌年、最後の時を迎える。

 朝六時三十分。

 最後の筏がつながれている川べりには、一面モヤが立ちこめている。霜柱を踏みながら水際に降りると、冷たい川風になぶられ、思わず身震いがするほど寒い。

 アオリとサオを担いだ筏流手たちは、川岸に作られた川神様を拝むと、次々と筏に乗り込む。

 最後なのだ。心なしか、筏流手たちの顔が緊張している。

 最後の筏が能代営林署仁鮒事業所を出発したのは、昭和三十九年十一月二十八日。

 筏流しは毎年四月中旬から十一月末まで行われるため、筏流手にとって、この日は、今年一年の仕事納めの日でもある。

 

 「オーイ、出すぞ」

 組頭の掛け声で、筏流手が力を入れてアオリを漕ぐと、八枚の筏はいっせいに岸を離れた。川岸では子供たちが盛んに手を振っている。

 川中に出ると、筏の速度はぐんぐん増した。水面のゴミをどんどん追い越し流れる。筏は間もなく、川底から岩がぼこぼこ突き出ている難所にさしかかる。

 「股大っきく開いて、前向きに立つんだ」

 おっかなびっくりで筏の上に立っている私を、筏流手のおっさんがどなる。一段と速度を増した筏は、やがて米代川随一の難所に差しかかった。筏の底が岩にあたり、ドドッと激しい音をたてる。

 丸太の振動が身に伝わり、私は青くなった。筏の流れが二、三メートル狂うと大きな岩に突き当たり、丸太を組んだゴボナワが切れてバラバラになるからだ。私の乗った筏は無事に難所を過ぎた。

 「これでひと安心だ」

 筏流手は緊張した顔に笑いをうかべる。

 筏の大きさは巾四メートル、長さ二十メートルである。スギ丸太の木口を流れの方向に並べ、藁を三つ組にした縄で筏を組む。終着地点の能代港は日本海からの海風を直接受け、特に、午後には流送に対して逆向きに強く吹くため、筏は午前中に能代に到着するよう流さなければならない。

 このため、二十四キロメートル上流にある仁鮒事業所の出発時刻は早朝となる。

 切石部落に入ると、米代川にかかる鉄橋を大阪行きの特急白鳥号がごう音とともに通過した。

 橋脚を過ぎて他の岩にも突き当たる心配がなくなると、筏流手は筏の上にグミを敷き、たき火をした。

 強風にあおられて、威勢よく燃える火を囲みながら朝食をとる。空はどんよりと曇っているが、次第に暖かくなってきた。

 やがて常磐部落に差しかかると、川幅が広くなり、筏の流れもいくらかゆっくりとしてきた。筏が通ると護岸工事をしていた二十数人の男女が働く手を止め、いっせいに手を振る。

 「今日で筏も終わりだナ。これからは、川を流れるのはゴミばっかしだから寂しくなるじゃ」

 頬っかむりした男が叫ぶ。

 「俺らも寂しいじゃ。そごにいる美人のメラシコ(娘)たちを、これがらは見らねがらナ」と、東藏さんが叫び返すと

 「いい年して、助平だこと」

 若い娘がきんきんした声で叫ぶ。川岸と筏の間を嬌笑がわたる。

 米代川を下る筏の姿はのどかな光景である。

 しかしながら、春の雪解け水は急流となって筏を矢のように流し、きしむ丸太と丸太の間に足を挟むなど怪我が絶えない。また、夏には日陰のない川面で直射日光に照らされ、秋は横から殴りつける氷雨に容赦なく叩かれる。

 山仕事のうち、一番難儀するのは筏流しであるが、一番楽するもの筏流しだという。

 水量も適当で、しかも天気が良いと筏は手をかけなくても気持ちよく流れる。

 そんな時は、唄の一つでも出てきそうであるが、万事が天気任せの仕事で、こんな日は一年のうち数えるほどだという。

 

 鶴形を過ぎるころから、雨が降り出してきた。

 同時に、日本海から吹き上げてくる風も強まり、筏は激しく揺れはじめた。

 立っていると振り落とされそうになるので、私はトビを打つと、それにつかまってしがみつくようにしている。そんな私の傍で、筏流手は敏速に動く。筏の揺れが大きくなるとゴボナワが切れるため、新しい縄で結い直さなければならない。

 周りの山々は雨に煙ってぼんやりとし、聞こえるのは激しい波音だけ。昼食を取る間もなく、アオリを漕ぐ筏流手の顔には疲労が浮かんで見える。

 筏の上のたき火も消え、アノラックを通した雨が肌に伝わり、私は寒さにふるえた。

 筏流しの速さは水量や風によって決まる。

流れが速く、風も穏やかな日は、昼までに終着地の能代に着いてしまうが、流送中に事故があったり、天候が急転した場合には、途中で筏を係留して、翌日、その場所から流送を再開することとなる。 筏流しの仕事は、家を出たら最後、いつ帰ってくるのか分からない。まさに自然相手の仕事である。

 そして、最後の筏流しは、残念ながらスムーズには終わらなかった。

 

 午後一時五十分、筏は米代川から分かれた。これからは旧檜山川伝いに貯木場まで流すのだが、風雨がいっそう強まった上、時間も遅くなったので岸に筏をつなぐ。

 明日、また、ここから流していくのである。

 「後ろ髪を引かれるような、最後だナ」

 筏流手が心残りげに言う。

 びしょ濡れになった筏流手は、丸太を蹴って岸に上がると、待っているバスへと急ぐ。その足取りはひどく疲れている。間もなく全員をのせたバスは、仁鮒に向けて出発した。

 雨の中に残された筏は、ときどきゴオッとくる突風にあおられて、波形にゆれている。

 雨はいつのまにか、みぞれに変わっていた。

 

 消え去った筏流しの情緒を懐かしんで、昭和四十年八月に筏祭りが催されたが、これは三年間続いて中止となった。

 そして、その後は、昭和四九年の能代港開港記念事業の一つとして筏祭りが行われただけで、筏は米代川からすっかり姿を消してしまった。

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