第7章 あの頃の思い出 第36話「ああ硫黄島」
戦後、日本の国土から実質的に除外されたにもかかわらず、国有財産として常に統計書の財産目録に記載されている土地に、沖縄、千島、小笠原諸島の国有林がある。この中の一つである小笠原諸島が、この度、米国から返還されることとなったが、返還後の帰属がもと通りになるとすれば、島の国有林は東京営林局の管轄となる。
昭和四十三年一月、返還後の小笠原諸島のあり方を巡って調査団が派遣されることとなり、幸いこれに参加する機会を得た。上陸調査したのは父島、母島、硫黄島であったが、ここでは、日本兵二万一千人、米軍兵五千人の尊い命を奪った太平洋最大の激戦地である硫黄島について述べることとする。
硫黄島沖合に到着したのは一月二十五日の早朝。艦上から弔砲十発とともに、長い黙祷を捧げる。薄暗い朝の洋上に、硫黄島が浮かんで見える。
本船からランチ、そしてボートへと乗り移り、戦後初めて硫黄島に上陸した日本人の一行として、硫黄島の砂の上を歩く。島の六、七割までが砂地であり、硫黄の臭いが強く噴煙も見える。
赤い花をつけた内地のマツバボタンに似たもの、ペンペン草やハイカヅラみたいなものが散見される中、一面に見えるのはギンネムである。日米激戦時には恐らく一本一草もなかったであろうから、島の植生推移を調査するためには好適な資料となる。
硫黄島には約三十名の米兵が駐屯している。滑走路の長さは二千六百メートルで、立派な飛行場である。
「硫黄島は、グアム、沖縄、東京、ハワイの四点を飛行する場合に、給油、避難という点で重要な位置にある」と米軍が説明する。
硫黄島は海抜六十メートル程度の平坦地で、高さ百六十六メートルの擂鉢山が南端にぽつんとそびえている。日本軍が最初に攻撃を受けた山であり、頂上には星条旗がはためき、その土台石には米軍海兵隊の勇気をたたえた横文字が見える。
この島の激闘がいかに凄惨であったか、この擂鉢山に登ってみればよく分かる。何万発の砲弾が撃ち込まれたか知る由もないが、不発弾が相当数処理されないままにあることから、舗装道路以外は歩行禁止とされている。
島の面積二千ヘクタールのうち、国有林は千三百ヘクタールを占めている。もとより林業らしい林業は営まれていないが、天然林の保護林が学術参考林として存置されていた。恐らく砂漠の中のオアシスにも似た存在であっただろうが、今は見るかげもなく、直径二メートル程度の根株が散乱するのみで、砲撃の苛烈さを忍ばせる。
獣は何もいない。ちどり、はやぶさ、めじろが飛び回っている。
真水は地下水からは望めない。滑走路を流れる雨水を集めたり、天水の溜池を作って飲料水に供している。
硫黄島のすべてのものが無心に生きている。平和郷だと思う。だが、今のままの硫黄島ではあまりにも寂しい。戦争の傷痕が人間の安らぎをさまたげているように思われるからである。
山官からは、山官らしい着想しか生まれない。
人間、動物、植物が混然一体となり、約三万の英霊を慰めるために、出来れば「硫黄島の森」を、その昔、保護林のあった場所でもよい、ささやかな森として造成したい。
これが硫黄島調査団への参加の巡懐であり、結びの言葉である。