昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第7章 あの頃の思い出 第34話「金原明善翁の事績を聞く会の記録」

 この金原明善翁に関する講演速記録は、水窪営林署の署長室の金庫に保管されていたものである。

 金原明善の瀬尻植林事業に明治二十三年より業務主任として参画し、その後も、金原明善の片腕として活躍された鈴木信一さんが死去の前年(昭和十七年)に話されたもので、生々しい実感があり貴重なものである。

 

(遠藤氏)

本日はご多忙中、誠に有難うございました。実は瀬尻御料林を中心とした金原翁のお話を伺いたいのですが、最初は当時の模様をお願いします。

(鈴木さん)

瀬尻の山へ入った動機は天竜川の堤防のことからです。天竜川は毎年氾濫していつも川の東か西かに切れる。一番ひどかった慶応六年には七度も決壊し、田畑全部砂利になってしまいました。こうなると大地返しといって砂利を下に入れ、土を上にして田畑を作ったものです。

大名時代には氾濫のため田畑が荒れると米か金をくれましたが、明治時代になってからはこれももらえず、大変困りました。そこで、金原翁は、当時の勢力のある方々によく請願に出かけました。岩倉卿には二度ほど嘆願に行きましたが、結局、あちらこちら頼んでみてもどうにもなりませんでした。金のある者は出し合ってみんなで堤防を直したらどうかとなりましたが、もともと返ってくる金ではないので誰も賛成する者がありません。そこで明善翁は一人で資産全部を投げ出し堤防を作設することを決心したのであります。

ある時、山岡鉄舟がこの話を聞きわざわざやって来まして、明善翁に「資産全部を出してしまうらしいが気の毒だ。いろいろ困ることもあるだろうから、せめて自活の費用だけはのこしておいたらどうか」と言いましたが、金原様は決心が定まっていて「お言葉は大変有り難いが、この近くの中野町という所に人力車夫がいる。この車夫が他の車曳きでは行かないような所へでも安い賃で働いて、酒飲みの親が残した借金も全部返しました。私は親の借金は一文もないし、もしどうしようもなければ車曳きになるつもりです」と申しますと、山岡様が膝を打って「それほどまでの決心ならおやりなさい」と喜んでくれたということです。

金原翁はいつも言っていました。

「国家のため貧乏になったのなら、これ位愉快なことはないじゃないか」

と、実にこのようして堤防構築の段取となったのであります。

また、ある時の明善翁は、「大久保卿は実に威厳のある方で、あの位恐ろしい方に会ったことはない」と申しておりました。

金原様が大久保内務卿へ、天竜川の氾濫防止の陳情に伺った時、ドアを開けて入ると中央の机に向かっておられ、その威厳に身体がブルブルと震えたそうです。

 こんなことでは駄目だと思い近づき、右の旨申し上げると、

「私は日本の内務卿だ、日本には天竜川のような川が十四あり、天竜川ばかりやる訳には参らぬのだ。私は天竜川の内務卿ではない」と。

 ここでさすがの金原様も、これほどまでに頼んでいるのに、と怒りが込み上げ、よし、駄目なら全財産投げ打って自分一人でやると、今までいくらかフラフラしていた気持ちがはっきりと定まり決心がついたのです。

「それなら私の資産全部を投げ出してやるから、この堤防構築の件、お許しを得たい」と申しますと、大久保卿はただ一言、「そうか」と言われただけだったそうです。

大久保卿にしてみれば、金原様が本物かどうか、たかりではないのか、その辺りの見分けがつかなかったのでしょう。

その後、静岡の役人が、大久保卿の命で金原様の言ったことが本当かどうか調べに来て、「これは本当だ」ということで、堤防構築工事を国が金原様から引き継いで実行することになるのですが、このあたり、明治の偉大なる両人のやりとりがなかなかおもしろうございます。

 この時、金原様は財産を褌(ふんどし)一枚まで残らず克明に書き出し、この時の全財産が約七万円でした。

金原様は全財産を売ったあと、堤防の上にバラックを建て、そこへ移り住み改修工事に奮励されましたが、生涯のうち、このころが金原様が最も情熱を燃やし、また精根を傾けた日々だったようです。

ちょうど明治十八年に土木局ができ、河川の改修工事は民間に任せておくべきものではないと、全部土木局でやることになったので、金原様は工事全部を土木局に引き渡したのであります。これは、大久保内務卿の意志が動いて国で実行することになったのですが、問題は金をどうするかということになりまして、六万八千円は金原様のところへ戻った訳でありますが、これについても、ひと悶着ありました。

金原様は、いったん男が国にあげたものをもらう訳にはいかないと、「東京に返しに行く」と言って頑張られたようでありますが、「金はいくらでも使い道はある、あまり偏屈な事は言わなくても良いではありませんか」と慰められ、金原様もその気になりました。

 しかし、「国家に捧げた金であるから私すべきものではない、何とか国家のお役に立てたい」と思っていたところ、中村弥六先生のお話では「山に木を植えてもらった方がよい、水を治めるには山を治める方がよい」というので、このお金が瀬尻の山の植林になったのであります。  

 そして、木を植える場所がどこにあるかということになり、地八峠を見出して、ここへ植えることに決め、明治十九年から十五箇年で植栽手入れして国家へ返納するという願書を出しました。目的は、金を如何にして国家のために用いるかということで、山へ木を植えることになったのであります。

 山へ植林することは急な思いつきではなく、もとの動機がありました。明治七年、土木寮に蘭人リンドウという人が雇われており、この人が天竜川を見た時、舟で天竜川を西川付近まで見たようでありますが、その時、リンドウは

「これでは川が荒れるのは当然だ。あのように山の中腹に人家、畑があっては駄目だ。このような家は北海道へ移せ。それでなければ天竜川は治まらない」と申しました。

 その当時の金原翁は外国人は馬鹿なことを言うものだと、たいして気に止めませんでしたが、中村弥六の話を聞き、また、自分で植栽することになって、このリンドウの言ったことに気がついては「なるほど」と山へ植林することを深く思い込んだのであります。

(遠藤氏)

天竜川の両岸の、その当時の林相はどんな具合でしたか。

(鈴木さん)

 瀬尻御料林の最初の林相はモミ、ツガもありましたが、大部分は雑木でした。高いところにはブナの大木もありました。また、地八峠の方面は全部かや野でした。

(遠藤氏)

植栽は吉野にならってやられたのですか。

(鈴木さん)

 私どもは吉野へ行き、また、熊野の方を見てきて密植しました。最初は一町歩八千本、その後は坪植で、一町歩三千本から四千本ぐらい植えました。

(遠藤氏)

 金原翁は時々山へ来られたのですか。

(鈴木さん)

 植付の頃来られました。その頃は金原銀行の方が主で、一週間も山にいないくらいでした。秋の九月、十月頃にも一度、年に二回ぐらい来られました。

 下刈は毎年やるとよいが、なかなか出来なくて長岡君とよく議論しました。二十年後に勝負しようとなったこともあります。私は、下刈をやりたいが金が足りなくてなかなか出来ないので、一本位枯れても間伐するのだから、このままにして置いた方が良い・・・今ではそこが立派な木になっていますが、下刈りはなかなか出来なくて、ほとんど手を抜いた始末です。

 

 この記録は、当時の帝室林野局の水窪出張所に勤務していた山下技手により書かれたものである。また、文中の遠藤氏とは当時の水窪出張所長であり、この記事について色々とご指導頂いた。

 瀬尻国有林に関する者にとっては耳新しいものばかりである。

f:id:sikimidaigarden:20210527174222j:plain