第7章 あの頃の思い出 第32話「オホーツク海の回想(二)」
昭和十八年、施業案の編成で間宮海峡に面した樺太の泊居事業区に出張した。晴天に恵まれ、あと数日で概況調査が終わろうとした六月三〇日の黄昏時、下流の方からブウー、ブウーと熊よけのラッパ音が聞こえてきた。
戦争が次第に激しくなり、友人や同僚が次々と応召していく最中のことあり、自分の応召の知らせではないかと思ったところ、果たせるかなその通りであった。王子の山林部の方が二人で、二十八キロもの下流から川を溯って連絡に来てくれたのである。「おめでとう」と言われたが、調査途上で班員を残して応召することが心配であり、「困ったことになった」と気持ちは複雑だった。
翌月三日に旭川第七師団に入隊。その後、札幌、根室へと転属し、十九年春には札幌の北部軍司令部に戻ると、小樽港から将兵三千人とともに千島守備のため択捉島の単冠湾に入港した。港は太平洋に面し、北方漁業の拠点としてのみならず、ハワイの真珠湾攻撃の基地となったところである。
私の小隊は択捉島に上陸したが、同年兵の多い他の一個小隊はウルプ島に上陸するらしく、私達とは手を振りながら別れた。ところが、その船がそれから二時間後に、択捉島とウルプ島の中間海域で、米国潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没したのである。
千六百人近い将兵が、流氷漂うオホーツクの海で永久に帰らぬ人となった訳であり、誰の目にも数時間前に別れた戦友の姿が浮かび、あふれる涙を抑えることが出来なかった。
ある冬の日、軍の真空管部品を受け取るため、太平洋に面したトシルリの町から林務署のある紗那を通り、天寧の北部軍司令部に行ったことがある。往路百四十キロメートルの雪中行軍である。
一日目は山を越えてオホーツクに面したトウロの町に行き、二日目はスキーを担ぎながら次の宿泊地に向かう。波しぶきをかぶりながら岩場を通り抜けると、次は砂丘で、気の遠くなるような長さであった。冬の太陽はすべるように地平線に落ち、頭上の岩の上では羆の遠吠えが聞こえた。食物がなくて穴に入れないのか、不思議な現象であった。
三日目はだらだら登りの山道を行くと、エゾマツ・トドマツの壮齢林がみられた。トドマツの北限だろうか、灰白色の美しい肌が印象的であった。背丈の低いダケカンバ・ハンノキ・ナナカマドの混交林が続くとやがて峠となり、眼下には紗那の町が見えてきた。翌朝には林務署を訪ねてみたが、男子職員の姿は見られず、女子職員が五、六人いただけである。
そこから先は起伏の多い山道で、トドマツ・エゾマツ・広葉樹の混交林がかぶさるように続いていた。スキーに慣れない隊員ばかりなので、のろのろと行進を続ける。山間の駅逓の中では寒さがひしひしと伝わり、食事もそこそこ毛布にくるまって眠ろうとするが、体がなかなか温かくならず、うとうとしていると山鳴りが聞こえてくる。
翌朝は、再び混交林の中を前進するが、樺太庁にいた頃の冬山登山の経験がここで役に立つとは思わなかった。連日の行軍で隊員は疲れて足も重く、スキーも滑らない。宿に着くと全員のスキーにワックスを塗っておくが、疲れて夕食はあまり口にしなかった。
出発して七日目、十時頃に目的地である天寧に着き、直ちに北部軍司令部に出向する。
到着の申告をすると、参謀は百四十キロのスキー行軍を行ったことについて、感激といたわりの言葉をかけてくれた。司令部でも初めてのことだったので、分隊長に行軍上の問題点を詳しく報告し、今後の作戦の参考とするという。
司令部から真空管部品を受け取ると、翌朝、帰路につく。復路はコースが分かっており、晴天が続いたため楽な旅であった。重大な任務を果たした感激は忘れることが出来ず、幸い、真空管は一個の破損もなかったと報告され、ほっとする。
八月一五日、終戦の勅令が発せられたことを隊長が発表する。情報部隊であった私の小隊は、戦果の裏側をいち早く察知していたので、「来るものがきた」と思い、それほどの動揺は受けなかったが、師団長は毛布にくるまり慟哭していたという。
夜の十時頃、私たち北海道出身の応召兵五人が指名され、今晩、民船で北海道へ帰還することが分かった。民間最後の引き揚げ船で、乗るのは婦女子と子供が大半であった。
午前零時頃、灯りを消して択捉島の単冠湾を脱出する。船の傷みがひどく船倉に海水が浸入してくるので、私たち五人はバケツの手渡しで汲み出しを続けた。
択捉島と国後島の中間海峡で、突然、船のエンジン音がスーっと消える。船長と機関長が油だらけになってエンジンの修理をしている姿が見られた。船内の人々は、不安な眼差しをじっと夜明けの海上に向けている。
それから二時間ぐらいの間、船は潮流に乗ってあてもなく流されていた。機上掃射が心配されたが、幸いにして海霧が発生して見通しが悪くなり、ほっとする。
エンジンが直らないのではと、やりきれない不安感がよぎった時、バンバンとエンジンが音をたてて船体を揺り動かした。船上の人々は思わず歓声を上げる。国後島の島影を縫うようにして航行し、やがて色丹島、水晶島を過ぎると、船足を早めて一路、根室港に向かう。
夢にまで見た帰郷が現実となってきた。双眼鏡で眺めると、港には漁船がひっそりと係留されていた。その背後に連なる町並みは、米軍の空爆を受け灰色に焼き尽くされており、敗戦の傷の大きさにやり切れない思いであった。
北海道の大地を踏みしめると涙があふれてきた。
私たち五人の戦友は、ただ、黙って抱き合って泣いてしまった。