昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第2章 営林局から 第11話「狐の山案内」

ある営林署の林況調査に出かけたときのことである。

 いつものように案内人を一人連れ、午前中は何事もなく調査を終わり、本流の河原まで降りて昼食をとった。真夏の暑い日であった。案内人がイワナを見つけて手づかみにし、晩の肴にということで笹の葉に包んでくれたため、それをリュックサックに入れ持ち帰ることとした。

 午後は本流を下り、一つ手前の沢の林況調査である。その場所へは本流をそのまま降りれば確実に行けたのであるが、直接、峰を越えて行った方が早いと考え、調査地がある方向を目指して道なき急斜面をよじ登って行くこととした。

 

 しばらくして峰に出たが、調査地が見当たらなかったので少し登れば良いと考え、鉈で小柴を伐りながら峰通りを進んだ。   

ところが、いくら歩いても調査地が出てこない。おまけにネマガリ竹が出てきたので「ちょっと違うのでは」とは思ったが、案内人は土地の人であり山にも明るかったので、口をはさまずそのまま同行した。

 しかしながら、ネマガリ竹が次第に多くなり、調査目的であるヒバもまばらになってきたことから、案内人に

 「何だかおかしい。東に進むべきものを西に進んでいるようだ。太陽の位置から見てもそんな気がする。この辺りで一服してみたらどうだ」

と言ったが、案内人は

「そんな筈はない」

と自信たっぷりに返答し、前へ進もうとする。

私としては、初めての土地でもあり、案内人に対して明確に反対するほどの自信もなかったため

「疲れたからとにかく一服しよう」

と言いタバコを勧めた。

案内人は岩に腰掛け煙をくゆらせたが、私はタバコもそこそこに済ませると、地図とコンパスを取り出しては進行方向を確かめた。

思った通り、東ではなく西に進んでいたため、案内人に「やはりこの方向ではない」とコンパスを見せ説明した。

それでも案内人は半信半疑であった。「何か目標は見えないか」と言うと木に登り辺りを見渡したところ、幸いにして見慣れた崩壊地を遠くに見つけることが出来た。それは、私たちが宿泊している部落から東側に遠望出来るものであった。

このため、その崩壊地がある方向を目指して進むこととなり、我々は再びネマガリ竹が広がる尾根を歩き始めた。

 

 尾根は平坦であり、かつ、今度は方向も確かなことから、足取りも心なしか軽かった。

 緩やかな起伏をアップダウンすること四十分。なかなか初めに登ってきた峰筋にたどり着かないことから、少々心配になりかけた頃、うっそうとしたヒバの森が我々の前方に見えてきた。

 それは意外な場所であった。

 何故ならそこは、午後、初めに登った峰筋ではなく、午前中に調査した、一つ奧の沢の源流部であったからである。

 何故、こんな所にまで逆戻りしてしまったのか。二人はあっけに取られながら、どこで間違えたかそれぞれ思案した。

 

はっきりとした原因は分からなかった。

 地図を見ると、平坦な尾根へはいくつかの峰筋がつながっており、少しでも方角を間違えると別の沢へと降りてしまう。しかしながら、正しい方向に進んでいたはずなのに、全然違う場所にたどり着いてしまったのはどうしてであろうか。

 どうやら我々は、大きな尾根の中にある小さな峰の中腹をぐるっと一巡させられていたようである。山歩きにはそれなりの自信があった。それなのに、その時の我々は、自分たちの意志とは関係なく行動していたようである。

 原因は何か。色々考えたが、こんな初歩的な間違いをするからには、きっと別の理由があるからに違いない。

 二人で話し合った結果、それは我々のせいではなく、リュックサックにあるイワナにあるものと断定した。

  

 今日は蒸し暑い日であった。いかに標高が高くとも、夏の日差しに当たればリュックサックの中のイワナも蒸されて程よい臭気を出す。

 山の狐がそれを欲しくて我々を引っ張り回したに違いない。

狐が油揚げが好きだということは子供の頃から聞いていたが、山のイワナにまで手を出すとは考えてもみなかった。

 こんな無駄な山歩きをしたのも、結局は狐のせいだと二人で納得し、重い足取りで下山したのであった。

 

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第2章 営林局から 第10話「五つの湖に女性の名を残す」

国有林の「事業図」は営林署ごとに作成され、地形や森林の現況が克明に記入されている。職員が山に入るとき、姿なき山案内として大切な役目を果たすものである。

 かつては、営林局計画課の職員が、半年あまりも山の中にテントを張り、現地踏査をして事業図を作成したものであるが、そうした時、人跡未踏の地に踏み込み、図面上にない滝や沼、川にぶつかることがある。また、無名の山や川も至るところにあり、事業を行う上で、また、後々の目印として、どうしても名前を付けておかなければならない時がある。

 そこで、現地の作業員や古老に聞いたりして、その土地や自然にふさわしい名前を考えるわけであるが、斜里営林署の306林班には、何故か「幸湖」「貞湖」「玲湖」「瑠美湖」「雪湖」と名が付いた小さな湖がある。

 「さては、出張旅費を一晩で飲みきってしまう山男たち、馴染みの飲み屋の女性の名をつけたな」

と勘ぐって、当時から在局する計画課の古手に真相を聞いてみた。

以下、「私」とあるのは、これを話してくれた職員である。

 

 昭和三十八年、経営計画編成のため、私ともう一人の職員、それに作業の三人で八月中旬から斜里営林署の山に入った。

ちょうど一ヶ月ほど過ぎたある日、「真鯉林道から入って、沢伝いに遠音別岳へと登り、頂上から山の状況を見よう」ということとなり、林道の終点から沢沿いに登り始めた。途中、渓流に何度も足を滑らせ、背丈以上もある笹をかき分けて進むこと二時間、目の前にアカエゾマツの群落が出現した。太さ六十センチ、樹高九メートル、曲がりくねった太い枝はオホーツク特有の樹形である。

 更に一時間、緩やかな台地を東に進むが、登るにしたがって次第にハイマツが濃くなり、樹高五、六メートルのものが群生して行く手をさえぎる。幹をつたわりながら一歩一歩進むが、足取りが急に遅くなる。

 「頂上アタックは無理だ。小高いところを見つけ、そこで下界を見通そう」

標高は既に九百メートルくらいまで登っており、図面上ではここから少し上にハイマツ林から突き出た大きな岩があるため、その岩から下を見ることとした。

 

 雲一つない秋晴れ。前方遠くにはオホーツク海が見え、海岸近くには、斜里とウトロを行き交う車が土煙を上げ走っているのが見える。

 足元近くに目を落とすと、図面にあるとおり、緩やかな台地の中に七つほどの湖とも沼とも言えるような水面が見える。

そのうち、誰からともなく「この湖には名前がない。考えてつけようか」

ということになった。しかし、三人で考えたが、いい名前が浮かんでこない。

 「俺たちに文学的才能があるわけでなし、あまり深刻に考えず、気楽にいこう」

と私が言うと、待っていたかのように一人が

「どうだい、課の女性の名にしては」と言った。

そして、その後は

「あの湖は、形がいいから○○子ちゃんだ」とか

「なんとなく、おとなしく見えるから○○子ちゃんだ」

などケンケンガクガクの議論の末、「幸湖」「貞湖」「玲湖」「瑠美湖」「雪湖」と名前がついたのである。

 

以上が命名の模様である。一ヶ月以上も他の男の顔すら見ない彼らとすれば、この命名のひとときは、課の女性の顔がとても美人に思えたことであろう。

しかし、これではあまりに公式的である。何故、あの岩山の上で計画課の女性となったのか、その辺りの理由が不明確であるが、そのことに関して、彼は多くを語りたがらない。

 オホーツク海を遠く見下ろす静かな台地の中にあって、この五つの湖は、今日もひっそりと佇んでいる。

 

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第2章 営林局から 第9話「黒部の測量隊」

ここに、十数人のたくましい男たちがいる。

 彼らは五年間にわたって、夏の数十日を人跡未踏というべき僻村の山で過ごした。道をつけ橋を渡し、テントを張り便所を作り、自家発電所とドラムカンの浴場までしつらえると、いよいよ仕事にとりかかる。

 その仕事とは、明治三十七年に測量した際の境界線を現地で探し出し、これを再度測量し、確定していく作業である。推理の道具は六十四年前の測量簿と、そのとき誰かが残したであろう微かな痕跡。当時の測量隊が支障木としてした切り払った木や枝の跡や、木標を打った際の周囲の盛土などを手がかりとして、現地での測量を進めていく。

 

昭和二十七年から二十年がかりで行う境界確定は、富山県有峰ダムの最源流部、岐阜県との県境にある寺地山(一九九六メートル)を起点として、薬師岳(二九二六メートル)の脇をかすめて越中沢岳(二五九一メートル)を超え、常願寺側の源流を通り黒部ダムの平の渡し場へとつながる、標高差千メートル、延長二十七キロメートルの路線である。

明治三十七年に境界査定が行われて以来、手を加えることなく放置されてきたため、当時の木標は既に腐っていてどこが境界点なのか分からず、石標についてもただ一本、有峰ダム上流の旧登山道の脇で見つけることが出来たのみである。このため、現地で不明となった境界標を復元し、これを国土地理院が行った三角測量の測点につなげることで現地で境界の位置を確定し、かつ、その境界の位置を図面の中で明らかにしていく。

 

 技術面でのつまづきが早速やってくる。

 測量を進めていく中、明治三十七年の測量成果と現地とが突合しなくなってきたのである。現場担当者があらゆる角度から検討したが原因がはっきりしない。

 「六十年以上前の測量成果によらず、新しく現地で境界を決めればよいではないか。隣接地は北陸電力の所有地であり、話を容易にまとまるはず」

との意見も内部で出てきた。

 しかし、たとえ精度の良否はあろうとも、昔の測量成果がある以上、それを捨てるとは測量屋の意地が許さないし、国有林のメンツに賭けても乗れる話ではない。かくして、最新の空中写真まで持ち出し、これを図面化することにより、どこで間違ってきたのか原因を調べることとした。

 ある時、空中写真を見つめていたO君が

「この細い線は何だろう。写真の焼き傷ではない、境界を伐開した跡ではないか」

と言う。

「そうに違いない」

 早速古い成果と並べて見ると、部分的によく一致している。

 空中写真にある僅かな細い線を頼りに現地を踏査すると、当時の測量簿から導き出した測点から一メートル程離れた場所に、ちょっと土が盛り上がっている箇所があるではないか。早速、スコップで掘り起こすと、真ん中に木標を打った痕跡が出てきた。そういう時の喜びは、技術屋として格別なものがある。

 無論、それぞれ自分の技術には絶対の自信を持っているが、こんな所が果たして境界線なのかと疑問に思う時には、昔の物の拠り所がないと、なかなか安心出来るものではない。

    

現地での測量は、毎年、梅雨明けから九月上旬まで連続して行われるが、八月十三日から十六日までは富山地方のうら盆となるため、一時的に下山する。南極観測隊やヒマラヤ登山隊などでは、一つのパーティがある期間、外部から隔絶された所で一切の作業を進めていくが、国有林の測量現場でも、もちろん規模も質も違うが同じような共同作業が行われる。

三日か四日の楽しみで行うキャンプと違い、数十日にも及ぶ天幕生活の不自由さを辛抱しながら仕事を続けるのは、並大抵の忍耐ではない。

 ベースキャンプから現場が離れると、五、六食分の米と缶詰、それと寝袋と着替え、測定の器械を担いでゴロンする。ゴロンとは簡易テントで寝ることであり、笹をひいては寝袋にもぐるのである。稜線に近いため水場がなく、炊事の水を運ぶのが精一杯という時もある。食事の内容も材料が限られているので、毎回、変わりばえのしない物ばかりである。

 同じテント生活であっても、ベースキャンプではおばさんの手料理が食べられる。ドラムカンの風呂にも入れる。場所によっては岩魚釣りが出来、面白いほど釣れる時もある。岩魚の刺身はおつなもので、トリスのキングサイズを舐めながら焚き火を眺め、いつしか眠りにつくのである。

 

 測量の仕事は、まず境界線の伐開から始まる。伐開作業は測量が出来るよう見通しを良くすることが目的であるが、登山道が整備されている訳ではないので、藪笹の中を鉈と鎌だけで切り開いていく。朝露でびしょぬれになり、山うるしに悩まされながら、二十七キロメートルの境界線を、山を登り沢を下っては一歩一歩進んでいく。

「やはり伐開作業が一番疲れるね」

「そりゃそうだ。全力投球だもの。体全体を動かす仕事だからな」

 作業員の声が、背丈以上もある藪の中から聞こえてくる。それを追いかけるように、職員が測量道具を担いで登って来た。測量機器も徐々に改良されてはいるが、山岳測量の場合、結局、重い機材を持ち歩くことには変わりはない。   

「この仕事の中で、測量だけは楽だね」

「そりゃそうだ。ただポールを持って突っ立っているだけだから」

 測量が始まると職員は真剣であるが、作業員は言われるままポールを持つだけであり、心なしか笑顔も見られる。

 

 測量の最大の敵は雨ではなく、ガス(霧)である。ひとたびガスが出てしまうと測量はお手上げとなり、三日で終わる予定が、四日、五日と延びてしまう。場所によっては、朝の九時半頃にはあたり一面がガスにすっぽりと覆われてしまうこともある。

「明日は二時半起床で、三時に出発したいがどうか」

と職員や作業員に声をかける。

みんな慣れたもので反対などない。自然相手の仕事である。苦労して登る以上、仕事は最大限進むことを誰もが期待している。

 むしろ、こうした高い山に登ると御来光を拝めることもあり、美しい朝の光を背にして仕事をしている時などは、苦しみもあるが楽しみの方が大きく感じられる。

    

 測量が終わり測点が決まると、次に境界標の埋設作業が待っている。腐朽した杭をコンクリート標や合成樹脂標などの永久標に切り替えていくのである。

「初めは測量の仕事だけかと思っていたけど、コンクリート標を背負って歩く仕事があるとは思わなかった」

一本十五キロもあるコンクリート標を運ぶ作業はつらく、それだけに山岳林の測量は若くて頑丈でないと勤まらない。       

 測量の仕事は、山の奥地で行われる地味で厳しい仕事であり、木材生産とか造林の仕事のように成果が目に見えて残るものではない。しかしながら、他人の財産と国有財産との境界を明らかにするという重要な職務である。

「この仕事は天職だと思っているし誇りも持っている。だから、やり終えた時は自分なりに満足しているし、満足しているからこそ、つらい仕事も勤まっているのかも知れない」

    

 露に濡れ、重い荷物を背負って山を登り沢を下ること数十キロメートル。国有財産の礎となるこれらの困難な仕事に汗する山男たちは、今日も境界線を歩くのである。

 

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第1章 現場から 第8話「担当区主任」

 営林署の担当区は、たいがい本署から離れた村落に位置し、比較的小さな部落にあることが多い。部落の住民とは各種事業の雇用や、自家用薪炭の売払などで密接に結ばれているが、従前のように官尊民卑の気質はなくなったとしても、純朴な住民にはまだまだ担当区主任と自分との間に大きな距離を感じている者が少なくない。

 また、勤務地が辺地であればあるほど、担当区主任は名士扱いされるようである。東北地方では、担当区主任が駐在警察官、東北電力散宿所員とともに「東北の三だんな」と言われているらしいが、道内では「分担区のだんなさん」とか「分担区さん」、「林務さん」などと言われてきており、今でも「営林署のだんなさん」と呼ばれることが多い。

 ことほどさように、担当区主任は辺地では名士のうちに入っていることは確かであるが、部落の戦没者慰霊碑建立資金の奉加帳が回ってきた時、最初に地元の製材工場主が一万円、次に部落の百貨店主五千円、それから小中学校長三千円とあり、次いで私のところに来られた時は、目をパチクリしたものである。

 

  こうした担当区主任の一挙一動は、まわりの注目の種になる。部落からの心象が良いところならばまだしも、万一、心象芳しくないところに配置されると、たとえ誠心誠意業務に当たったとしても、一部の住民の心象を損ねようものならそれこそ百年目、ましてやこちらに落ち度でもあろうものなら、営林署への投書が矢継ぎ早に行われる。

 幸いにして、こうしたひどい目には会わずに済んできたが、担当区在勤中は、「男子門をいずればこれ敵中」で二十四時間気の休まるときはない。

 とにかく、いつでも、どこでも、誰にでも真心をもって接すること、すなわち「人間性でぶつかっていくことがいかに大切か」ということを、担当区勤務中、身を以て体験させられた。

 

 営林署の宿舎では、朝七時ごろまでカーテンが閉められていることも珍しくないが、担当区事務所では、この時刻には作業員が既に現場に出ているから、とうに起き出している。外を見ては空模様を心配し、天気予報の時間にはテレビやラジオにかじりつき、こうして担当区の一日が始まる。

 また、お天気が続けば苗木が枯れないかと心配する。雨が降れば降ったで、内勤していても、作業員が「濡れているだろう。滑って怪我をしてはいないか」と心配が続く。長雨となれば、根腐れはとか、造林小屋が流れないかということにもなる。苗畑を受け持っていようものなら、晩霜、早霜と春秋二回は夜九時過ぎまで寒暖計とにらめっこしなければならない。

 さらに、本署ではいくら公用の来客があっても昼食や退庁時刻には退散願えるが、事務所兼自宅の担当区で地元住民を相手にしていれば、「時間ですからどうぞお帰りを」とは言えず、しびれを切らすこと月に一、二度は覚悟しなければならない。

 春植最盛期の五月に義弟の訃報を、加えて造林事業終了を二、三日後とした十一月には姉の訃報を故郷のF県から知らされながらも、一週間以上も担当区を空ける訳にはいかないと諦め、南の空に一人手を合わせたことも今となれば思い出の一こまに過ぎない。

   

 長いこと山役人をやって、どの時代が一番おもしろかったかと聞かれたとき、私はいつも同じ答をしている。

 「苦しくもあったし、自分の力のなさに嫌気をさしたこともあったが、今から思ってみると、署長時代と、担当区主任時代とが、仕事としては一番愉快だった」

 仕事は小さくても、一つ一つの仕事を自分で思うように出来るということは、やはり楽しいことであり、担当区主任の仕事の喜びがここにあった。

 

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第1章 現場から 第7話「わしらの植えた山はどうなったろう」

 明治三二年から大正十年までの国有林野特別経営事業は、我が国はもとより、世界の林政史上においても特筆すべき大事業であった。この事業の完成によって、国有林経営の基礎が出来上がり、今日の国有林野事業特別会計の大きな財源となっていることは今更言うまでもない。

 熊本営林局管内でも四万三千町歩の造林がこの事業によって行われており、本日は、その特別経営時代の造林事業に従事した方々に当時の思い出を語って頂いた。

 

(司会)

 昔、植えられた山を見た感想を。

(計佐太郎さん)

 苦心して植えた山がこんな立派になったかと、懐かしく思いました。それと、集材や運搬の設備を見てびっくりしました。昔はトロリー軌道まで落としおったもんです。板に挽いても割れてしまって、商人も困ったそうです。

(司会)

 地拵えは、火入れでしたか。

(キワさん)

 火入れでした。雨が降ると燃えないでしょう。寄せ焼きして、大きな枝は鋸などで伐って焼いたものでした。木炭を焼いた跡を植えていたので、残っている木は大きなものばかりでした。そのまま置いていては、植えるところがないんですよ。

(司会)

 ここから歩いて行ったんですか。

(松次郎さん)

 普通泊まり込みでした。味噌、醤油、野菜、鍋、釜、簑(みの)などをカゴに入れ、最初の日はまだ夜の明けないうちに歩いていっておりました。せいぜい一週間か十日分しか食料を持てませんでした。苗木は下から馬に乗せて持ってきておりました。また、牛でも運んでいました。

(司会)

 その頃、植える方法はどのように教えられましたか。

(忠次郎さん)

 定規はありましたが、定規のようにはいきませんでした。主任さんやら監督さんのおられる時は、やっぱり念を入れて植えよりましたけど、おらん時はザッと植えて人に遅れんようについて行きました。そういう時に限って監督さんに見つかって叱られたものです。それでもよく活着しておりました。今日見てみるとつきが良すぎて、少し本数が少ないともう少し太っておったかも知れません。ヒノキを植える時は、葉の表をお日様の方に向けて植えるように言われておりました。

(司会)

 今はそれは言わないですね、自然に向きますから。続いて、下刈りの方法は。

(忠次郎さん)

 横刈りです。腕のいい人は伐り幅を広く、腕の落ちる人は狭くするとかしてやっておりました。

(司会)

 当時の主任さんは、一週間のうち何日位山に泊まっていたのですか。

(キワさん)

 毎日泊まっておられました。主任さんの食事は女の人が代わる代わる焚いてあげていました。

(松次郎さん)

 時間中はぐるぐる回って指導したり、適当な場所を見つけて見張っておりました。たいがい尾根筋におられたですね。あんまりやかましい主任には、わざと上から石をころがしよったもんです。しかし、わざとやらんでも傾斜のたった所では転がりますよ。下刈りの時はあまりころげませんが、植付けの時は、堀った石がよく転げました。

(司会)

 補植はやっていましたか。

(松次郎さん)

 枯れた程度によって違いますが、新植した翌年は必ず補植していました。

(司会)

 苗木は今と同じ位の大きさでしたか。

(計佐太郎さん)

 今より大きな苗木でした。実生苗がほとんどで、それも吉野スギでした。

(司会)

 山泊まりの時、晩は何をして過ごしておられましたか。

(松次郎さん)

 草鞋を作るくらいのものでした。夏でも薪をたかないと灯りもない時代でしたから。

(忠次郎さん)

 山まで焼酎を背負っていく余裕もなかったし、お金もなかったから、飲みたくても荷物が多くて背負っていけなかったですね。

(司会)

 一年のうち、国有林の仕事に何日位出ておられたんですか。

(忠治郎さん)

 植付けと下刈りを合わせて五十日位じゃないでしょうか。

(司会)

 国有林の仕事に出られて、今でも思い出に残っていることはありませんか。

(キワさん)

 あまり面白いことはなかったです。骨の折ることばかりでした。

 

 この特別経営時代に造林された美林も、国有林の木材供給という使命を果たすため、遠からず姿を消してしまうこともまた事実である。宮崎県児湯郡から来て頂いた、明治二十年代生まれの方々による貴重なお話であった。

 

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第1章 現場から 第6話「冬のパイロットフォレストを守る人たち」

 標茶営林署から二十二キロメートル。湿原地帯に阻まれたため、かつては人跡未踏と言われたこの無立木地も七千二百ヘクタール余りの巨大な造林地となった。

 事業の最盛期にはたくましい機械の音に加え、連日、見学に訪れる人たちで活気を呈するこのパイロットフォレストも、今は深い眠りにつき静まりかえっている。

 この広大な造林地を、冬の猛威と闘いながら、野ウサギや野ネズミの被害から守り続ける越冬隊は八名。太田造林事業所に詰めながら、毎日、地道な作業を続けている。

 

 まず、今年ほど雪の少ない年はない。

 野ウサギの捕獲は、その足跡を追って通り道に針金のワナを仕掛けるため、ある程度の雪が降ってくれないと野ウサギが自由に跳ね回ってしまう。野ウサギの通り道が固定しないと、仕事がやりにくくて仕方がない。

  事業所近くの造林地は、木が大きく成長しているため被害も少ないが、若い造林地は野ウサギにとって絶好の餌場となる。野ネズミのように毒餌散布により一網打尽する訳にもいかないため、とにかく林内を歩き回り、野ウサギの通り道のようなところを見計らっては伏せわなや三角わなを仕掛けるしかない。それでも、二月六日現在で二百羽近く捕獲したが、相手は雪がないことを幸い林内を跋扈する。

  今年の見回り面積は千五百ヘクタールで、これまでに六百ぐらいのわなを仕掛けた。これを見回りに行って、野ウサギが二羽でも三羽でもかかっていると、私たちがやっている仕事も無駄ではなかった感じる。

 野ウサギは、昔から見るとかなり減ってきたが、厚岸町の牧場にはまだ相当数が生息している。お隣の大湿原が冬に凍結すると、ウサギはこちら側に渡ってくる。渡ってしまえば、パイロットフォレストは南斜面にあることから日当たりも良く、カラマツなど餌も豊富にあることから、彼らにすれば天国そのものである。

 

 もう一つの脅威は山火事である。

 二月の山火事など、普通、道東地方では普通考えられないが、今年は数十年来の暖冬で積雪がなく、パイロットフォレストに近い浜中町釧路市の原野では野火が発生している。造林地で出火すると大面積を消失する危険があるため、越冬隊は毎日、望楼に登って周囲を確認する。

  また、大面積の一斉造林地を成林させるため、全域を五十ヘクタールほどの単位に分け、観測地点を設けている。そして、これを周期的に回っては、特に恐ろしいテングハマキ、胴枯病、落葉病、先枯病などの被害がないか注意を払いながら調査する。野ネズミについては、観測地点を更に細かく分け、早期発見、早期防除に努めている。 

 端的な言葉で言うと、造林地の健康診断。これを徹底的にやるしかない。

 

 私たちは、パイロットフォレストの事業が始まって以来、ここで勤務しているが、初めて植えたカラマツが六メートルにもなったのを見ると、よくもこんな湿原地帯で立派に育ったものだと思うと同時に、カラマツの成長に対して何とも言い難い力強さを感じる。

 夏は造林や保育に、冬は保護にとこれからも体が続く限り仕事を続けたいと思う。

 

 村上君がこんな話をしていた。

 三十四年四月、パイロットフォレストに火が燃え移ろうとした時、二晩中消火にあたったことに対し、釧路営林署が林野庁長官から表彰を受けたことがある。

 その時、カラマツの葉に「功」と入ったネクタイ止めを百個頂いたので、防火の関係者に配ったところ、ある担当区さんから

 「私たちだって三日も寝ずに山火事を防いだことがあるのに、その表彰はどうしてくれるんだ」

と言われた。

 もちろん、言った担当区さんは冗談だったろうが、その時は本当に心苦しかったと。

パイロットフォレストには大勢の視察者も来るし、完成式典もやってもらえたが、俺たちの作った山は誰も見に来ないし、記念式もない」

という冗談話をチラッと聞いた。

 これが冗談でなくなったら大変である。

 造林の成果を支える努力には、どこの山でも二つはない。

 

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第1章 現場から 第5話「昼のいこい」

 担当区主任の楽しみの一つに、現場の作業員と食べる昼食がある。

 午前中の仕事の疲れをとり、空腹を満たす。この時間の仕事の話に混じった雑談がまた面白いもので、飲む話から食べる話、遊ぶ話にさては女性の話と、時がたつのも忘れるほどである。

 

 「主任さん! 主任さんほどええ仕事はないのう。たまに山に来て、ええ運動になるし、ええ空気は吸えるし」

 「あほう言いな。こんな合わん、馬鹿みたいな仕事はないぜよ。上のもんにはやかましゅう言われたり、怒られたり。下のもんには文句を言われてあわん仕事よ、おまんらあのほうがずっとましよ。鎌を一日振っていたらええ賃になって。奥さんばあのもんじゃろうがよ、おまんにやかましゅういうたり、おこるもんは」

 「わしらあは鎌を振るしかのうのない男よ、おかあの腹から出てくる時から鎌を下げて出てきちょるきに。主任さんはエンピツとソロバンを下げて出てきつろう」

 「あほう言いな、まあ一升徳利よ、ハハハ・・・」

 

 また、ある作業員が言う。

 「主任さんは、若いきにええのう、これから先なんでもなれるきに」  

 「そんなことがあるかよ、こんな仕事をして小使いで終わりよ」

 「そりゃ、違えぜよ。わしらあばあ年がいっちゃせんきに、わしらあばあ年がいったらもういかん」

 「そんなに年もいっちゃあせんがあ、まだまだこれからよ」 

 「いや、もういかん・・・けんど、わしらあも若いときゃ、何ぞにならんといかんと思いよったが、そうこうするうちにおじいになったが」

 「ハハハ・・・ありゃ、もうこんな時間かよ。ほんだらそろそろ仕事を始めるかよ」

 

 レクリェーションにもなり、安全作業にもつながり、私の唯一の楽しみである。

 

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