第1章 現場から 第7話「わしらの植えた山はどうなったろう」
明治三二年から大正十年までの国有林野特別経営事業は、我が国はもとより、世界の林政史上においても特筆すべき大事業であった。この事業の完成によって、国有林経営の基礎が出来上がり、今日の国有林野事業特別会計の大きな財源となっていることは今更言うまでもない。
熊本営林局管内でも四万三千町歩の造林がこの事業によって行われており、本日は、その特別経営時代の造林事業に従事した方々に当時の思い出を語って頂いた。
(司会)
昔、植えられた山を見た感想を。
(計佐太郎さん)
苦心して植えた山がこんな立派になったかと、懐かしく思いました。それと、集材や運搬の設備を見てびっくりしました。昔はトロリー軌道まで落としおったもんです。板に挽いても割れてしまって、商人も困ったそうです。
(司会)
地拵えは、火入れでしたか。
(キワさん)
火入れでした。雨が降ると燃えないでしょう。寄せ焼きして、大きな枝は鋸などで伐って焼いたものでした。木炭を焼いた跡を植えていたので、残っている木は大きなものばかりでした。そのまま置いていては、植えるところがないんですよ。
(司会)
ここから歩いて行ったんですか。
(松次郎さん)
普通泊まり込みでした。味噌、醤油、野菜、鍋、釜、簑(みの)などをカゴに入れ、最初の日はまだ夜の明けないうちに歩いていっておりました。せいぜい一週間か十日分しか食料を持てませんでした。苗木は下から馬に乗せて持ってきておりました。また、牛でも運んでいました。
(司会)
その頃、植える方法はどのように教えられましたか。
(忠次郎さん)
定規はありましたが、定規のようにはいきませんでした。主任さんやら監督さんのおられる時は、やっぱり念を入れて植えよりましたけど、おらん時はザッと植えて人に遅れんようについて行きました。そういう時に限って監督さんに見つかって叱られたものです。それでもよく活着しておりました。今日見てみるとつきが良すぎて、少し本数が少ないともう少し太っておったかも知れません。ヒノキを植える時は、葉の表をお日様の方に向けて植えるように言われておりました。
(司会)
今はそれは言わないですね、自然に向きますから。続いて、下刈りの方法は。
(忠次郎さん)
横刈りです。腕のいい人は伐り幅を広く、腕の落ちる人は狭くするとかしてやっておりました。
(司会)
当時の主任さんは、一週間のうち何日位山に泊まっていたのですか。
(キワさん)
毎日泊まっておられました。主任さんの食事は女の人が代わる代わる焚いてあげていました。
(松次郎さん)
時間中はぐるぐる回って指導したり、適当な場所を見つけて見張っておりました。たいがい尾根筋におられたですね。あんまりやかましい主任には、わざと上から石をころがしよったもんです。しかし、わざとやらんでも傾斜のたった所では転がりますよ。下刈りの時はあまりころげませんが、植付けの時は、堀った石がよく転げました。
(司会)
補植はやっていましたか。
(松次郎さん)
枯れた程度によって違いますが、新植した翌年は必ず補植していました。
(司会)
苗木は今と同じ位の大きさでしたか。
(計佐太郎さん)
今より大きな苗木でした。実生苗がほとんどで、それも吉野スギでした。
(司会)
山泊まりの時、晩は何をして過ごしておられましたか。
(松次郎さん)
草鞋を作るくらいのものでした。夏でも薪をたかないと灯りもない時代でしたから。
(忠次郎さん)
山まで焼酎を背負っていく余裕もなかったし、お金もなかったから、飲みたくても荷物が多くて背負っていけなかったですね。
(司会)
一年のうち、国有林の仕事に何日位出ておられたんですか。
(忠治郎さん)
植付けと下刈りを合わせて五十日位じゃないでしょうか。
(司会)
国有林の仕事に出られて、今でも思い出に残っていることはありませんか。
(キワさん)
あまり面白いことはなかったです。骨の折ることばかりでした。
この特別経営時代に造林された美林も、国有林の木材供給という使命を果たすため、遠からず姿を消してしまうこともまた事実である。宮崎県児湯郡から来て頂いた、明治二十年代生まれの方々による貴重なお話であった。