昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第1章 現場から 第8話「担当区主任」

 営林署の担当区は、たいがい本署から離れた村落に位置し、比較的小さな部落にあることが多い。部落の住民とは各種事業の雇用や、自家用薪炭の売払などで密接に結ばれているが、従前のように官尊民卑の気質はなくなったとしても、純朴な住民にはまだまだ担当区主任と自分との間に大きな距離を感じている者が少なくない。

 また、勤務地が辺地であればあるほど、担当区主任は名士扱いされるようである。東北地方では、担当区主任が駐在警察官、東北電力散宿所員とともに「東北の三だんな」と言われているらしいが、道内では「分担区のだんなさん」とか「分担区さん」、「林務さん」などと言われてきており、今でも「営林署のだんなさん」と呼ばれることが多い。

 ことほどさように、担当区主任は辺地では名士のうちに入っていることは確かであるが、部落の戦没者慰霊碑建立資金の奉加帳が回ってきた時、最初に地元の製材工場主が一万円、次に部落の百貨店主五千円、それから小中学校長三千円とあり、次いで私のところに来られた時は、目をパチクリしたものである。

 

  こうした担当区主任の一挙一動は、まわりの注目の種になる。部落からの心象が良いところならばまだしも、万一、心象芳しくないところに配置されると、たとえ誠心誠意業務に当たったとしても、一部の住民の心象を損ねようものならそれこそ百年目、ましてやこちらに落ち度でもあろうものなら、営林署への投書が矢継ぎ早に行われる。

 幸いにして、こうしたひどい目には会わずに済んできたが、担当区在勤中は、「男子門をいずればこれ敵中」で二十四時間気の休まるときはない。

 とにかく、いつでも、どこでも、誰にでも真心をもって接すること、すなわち「人間性でぶつかっていくことがいかに大切か」ということを、担当区勤務中、身を以て体験させられた。

 

 営林署の宿舎では、朝七時ごろまでカーテンが閉められていることも珍しくないが、担当区事務所では、この時刻には作業員が既に現場に出ているから、とうに起き出している。外を見ては空模様を心配し、天気予報の時間にはテレビやラジオにかじりつき、こうして担当区の一日が始まる。

 また、お天気が続けば苗木が枯れないかと心配する。雨が降れば降ったで、内勤していても、作業員が「濡れているだろう。滑って怪我をしてはいないか」と心配が続く。長雨となれば、根腐れはとか、造林小屋が流れないかということにもなる。苗畑を受け持っていようものなら、晩霜、早霜と春秋二回は夜九時過ぎまで寒暖計とにらめっこしなければならない。

 さらに、本署ではいくら公用の来客があっても昼食や退庁時刻には退散願えるが、事務所兼自宅の担当区で地元住民を相手にしていれば、「時間ですからどうぞお帰りを」とは言えず、しびれを切らすこと月に一、二度は覚悟しなければならない。

 春植最盛期の五月に義弟の訃報を、加えて造林事業終了を二、三日後とした十一月には姉の訃報を故郷のF県から知らされながらも、一週間以上も担当区を空ける訳にはいかないと諦め、南の空に一人手を合わせたことも今となれば思い出の一こまに過ぎない。

   

 長いこと山役人をやって、どの時代が一番おもしろかったかと聞かれたとき、私はいつも同じ答をしている。

 「苦しくもあったし、自分の力のなさに嫌気をさしたこともあったが、今から思ってみると、署長時代と、担当区主任時代とが、仕事としては一番愉快だった」

 仕事は小さくても、一つ一つの仕事を自分で思うように出来るということは、やはり楽しいことであり、担当区主任の仕事の喜びがここにあった。

 

f:id:sikimidaigarden:20210108084413j:plain