昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第3章 営林署から 第15話「えりもの治山事業」

えりもは、今から約三百年前の寛文年間には既に和人が移住し、海藻類や魚介の採取によって生計を立てていたと伝えられる。その頃、現在の国有林はまだ未開地であり、高台はカシワやミズナラ、低地はヤナギやハンノキを主体とする広葉樹林であったが、風雪に痛めつけられ、やっと地表を覆っている程度に過ぎなかった。

 こうした原生林も、江戸時代末期、和人が本格的に移住したことに伴い、家屋の建築資材や燃料用として伐採が進み、更には伐根まで掘り出して燃料としたため、急速に荒廃した。

 さらに、風速十メートル以上の日が年間二百七十日以上にも及ぶという厳しい気象条件によって、約四百ヘクタールの国有林のうち半分近くが裸地化し、残りも密度の低い草生地となった。

そして、地表の土砂は激しい風で海中に吹き飛ばされ、海藻類が住みつく岩礁に泥となって堆積した。このため、コンブなどの生育は阻害され、また、回遊魚も寄りつかなくなって水揚げ高も次第に減少した。

 さらに、家の中は戸を閉め切っても舞い込む飛砂のため寝食にもこと欠き、飲料水は濁り、眼病も絶えないなど、地元の人たちの生活を脅かすほどとなった。

 こうしたことから、昭和二十八年、浦河営林署にえりも治山事業所が設置され、はげ山回復の第一歩が踏み出された訳だが、えりもの復旧への基礎を作ったのは誰かと問われれば、私は即座にゴタだと答える。

 ゴタは冬の荒海により大量に海岸へと打ち寄せられる雑海藻の総称で、地元の人にとっては、役に立たない嫌われものであるが、もともと、このゴタは、緑化に使う堆肥の量を増やすための単なる混ぜものにすぎなかった。

 しかし、最初に行った葦簀張工や粗朶伏工ではすき間から強風が入り込み草本類が上手く活着しないため、試験的にゴタを葦簀や粗朶の下に薄く敷き込んでみたところ、ゴタの適度な粘り気と湿気が風を防ぎ、海藻類の茎のからまり合いの中から牧草の芽が出てきた。

 このため、これをさらに一歩進め、ゴタをやや厚めに敷き詰めることとし、施肥、地表かくはん、播種、覆土の上にゴタ被覆という工法を試みることとなった。

 結果は非常に良好で、風による飛散も起こさず、また、当初危惧された塩害も見られなかった。

そこで、葦簀や粗朶は地元での入手が困難なこともあって、粗朶伏工は思い切って取り止めることとし、急斜面はゴタを敷き込んだ葦簀張り、緩斜面や平地はゴタ被覆によることとした。

 また、ゴタの採取は、当初は少量のため作業員が直接行っていたが、徐々に使用量が増えたため資材購入に切り替え、単価を決めて誰からでも購入することとした。

 

ところが、ここで地元の漁業組合からクレームがついた。

 海藻類の採取権はそもそも漁業組合にあり、治山事業所が誰からでも買うとなると、浜の権利のない者も採取してしまう。そこで、採取者からは漁業組合に賦役金(手数料)を支払ってもらうというのである。

 私は、電話で話を聞いているうち頭に来た。これは、すなわちピンハネであり、漁協は自分の都合のいいことばかり言っている。部落のため、漁民のためにこの大変な仕事をやっているのに、ろくに協力しないばかりか文句ばかりつけてくる。売れるようになったからといって、ゴタに漁業権を主張するとは何事だ。それも、単に電話一本で通告してくるとは、何ということだ。

電話では組合長をどなり返したものの、ゴタの資材価格が高くなると工事に影響するし、かと言って漁協の言い分も無視する訳にはいかない。何か良い方法はないかと考えると、頭は痛かった。

そこで、ええい、ままよと腹を決めることとした。海千山千の組合長相手には意表を突くに限る。先手を打ってこちらから漁協に出向き交渉することとした。

 漁協の事務所に入るや、ニコニコしながら直接、組合長の前に行き、電話での非礼を詫びては腹をを割って相談に乗ってくれと持ちかけた。

 まずは予算の事情、事業所の将来の見通し、ゴタの効用その他、誇張を交えながら話し、おもむろにこちらの主張を切り出した。

 ゴタの採取は一括して漁協に請け負わす。大量になるかも知れぬが、必要量は無理をしても採取してもらいたい。部落民には漁業権のない人も多く、貧困家庭も多いので、浜の権利のある人のみに限定しないでほしい。また、購入単価は今の価格を上回らないようにしてほしいが、漁協は取りまとめが必要だろうから、その分ぐらいはプラスとしても仕方がなく、こういう事で手を打とうとしたのである。

 

これでゴタのごたごた問題も一件落着となった。

 えりもの治山事業を懐古するたびに思い出すのは、ゴタの山であり、ゴタの半腐れの臭いであり、このゴタ論争である。まことにゴタとはいみじくも名付けたものであり、今更ながら、ゴタの功績を称えている次第である。

 

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第3章 営林署から 第14話「出納員哀歌」

営林署の経理課にいると、必然的にやらなければならない仕事の中に支払いがある。

 現金出納員として、此方の谷の部落からそちらの野辺の部落へ、山を越え、谷を横切って、国有林の仕事に出役した人達の賃金を支払って回るのである。

 また、現場で購入した石油、砥石等の物品代や、オートバイ・刈払機の修繕代の支払いなどもある。

 とにかく、そんな種類の代金をリュックサックに詰め込み、オートバイに乗って石ころだらけの道を走り回るのは並大抵のことではなく、あらかじめ担当区主任を通じて連絡はするものの、何らかの都合で約束していた時刻に到着出来ないこともしばしばある。

 

植付や下刈の場合は大勢の人夫を必要とすることから、地元から何十人、多い時には百人以上の人たちをまとめて雇用する。

部落によっては、この時期は国有林の仕事しかないような所もあることから、翌月の支払い日にあっては、出納員の到着が少々遅れても、皆、支払いが来るのを待っている。

一方、林野巡視や境界巡検などの仕事は、どちらかと言うと散発的であり、ある部落からの出役は、ひと月に僅か一人、しかも出役日数は三日間程度といったことも珍しくはない。

しかしながら、支払いは一人でも百人でも同じであり、よくもこのような山の中に住んでいるものだと感心するような平家の落人部落のような所でも、たった一人のために出掛けて行く訳であるが、ここでもう一つの苦労がある。

 

 国有林の巡視を手伝うような人は、大抵、その部落の中でも信用確実な人である。あいていに言えば資産家である。したがって、営林署から支払われる僅かな賃金などあまりアテにしていない。

 このため、出納員が、何らかの都合で、あらかじめ連絡していた時刻に姿を見せない場合、相手は、待っていた時間に営林署の人が来ないから「それではちょっと畑まで行って来ようか」ということになるが、こんな山の中のちょっととは最低でも一時間で、出たが最後「半日帰って来なかった」ということも珍しくはない。

 また、受取を任された奥さんも、「ちょっとその辺りまで」と牛の草刈りに行ってしまったり、中には、営林署から支払いが来ることをすっかり忘れ、朝から夫婦そろって畑に出てしまうようなこともある。

 そんな所へ悪路と戦い、やっとたどり着いた時の出納員の気持ちほど、惨めなものはない。

 田舎だから家の鍵などかけてあるはずもなく、玄関に腰をおろして誰かが現れるのを気長に待つしかないが、どうかすると、待機の姿勢に移る前に、腰の曲がった婆さんがひょっこり母屋の裏手の方から現れることがある。 

 だが、そんな婆さんは耳が遠いのが普通で、耳元で怒鳴っても、その土地の言葉で言わないとなかなか通じない。

 「営林署から支払いに来ました。ご主人はどこに行かれましたか」

 ようやくこちらの目的が分かっても、その婆さんの答えは

 「ああ営林署の人かい。息子は先刻までいたがのう」

 この婆さんの「先刻」は五分前か一時間前か、知る由もない。

 

  婆さんが現れない時は、青ばなを垂らした子供が奧から姿を見せる。うさん臭そうな目つきで、上から下まで出納員をじろじろ見る。

 「父ちゃんはどこへ行った」

 「父ちゃんは畑だ」

 「畑はどこだ」

 「畑はあっちだ」

 「あっちはどっちだ」

 「秀ジイの畑のとなりだ」

 これでは話にならない。

  山奧の部落に行くと、こんなことはザラにある。 

 大体、昼間はこんな調子だから、支払いに限らず、担当区の仕事は、農作業が終わる頃を見計らって相手を訪問することが多い。再度、こんな山奥に来ることを考えれば、この方がはるかに効率的である。

 

 営林署を出発する時、旅行命令と同時に、別段、指示は受けていなくても、善良な職員は、仕事を一刻も早く、かつ、確実に済ませるため、真っ暗な山道をヘッドライトを頼りに走り回る。

 事情を知ったやつに待ち伏せされ、棍棒でポカリとやられたらどうしよう。多い時には百万円以上、少ない時でも二、三十万円の現金は大抵、持っている。ハンドルを握りながらそんなことをふと考えて、思わず、ゾッとすることがある。

 しかしながら、国有林がそこにある限り、出納員は、危険と現金を一杯にはらませたリュックサックを背に、営林署から東へ西へとオートバイを走らせていくのである。

 

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第2章 営林局から 第13話「林業体操」

午後三時きっかり。

 スピーカーから林業体操前奏曲の軽快なメロディが流れてくる。皆が一斉にペンや計算機を置いて立ち上がる。そこで聞き覚えのある局福利厚生課課長補佐の田畑さんの声が入ってくる。

 「さあ、元気で林業体操を始めましょう」

 続いてあまり歯切れは良くないが、そのため、かえって親しみのある塩谷先生の号令。

 実に気持ちがいい。爽快だ。みんな熱心にやっている。

 右を見ても、左を見ても、みんな元気にやってる、やってる。

 

業間体操は、今までも厚生課として実施を考えてきたようであるが、今回、健康の維持増進、作業の安全確保・能率向上を狙いとして全面的に取り入れ、林業体操として普及することとなった。

この体操は、始めてからまだひと月にしかならないが、年輩の人にも女子職員にも喜んで受け入れられている。その理由は何だろうか。

 第一は、丁度、気分転換を必要とする時間にタイミングよく行われることである。難しい仕事に頭を抱え一服したくなる人、単調な事務に飽きた人など、軽い体操ですっきりした気分になる。

第二は、林業体操は誰でも出来るやさしいものだからである。塩谷先生が言うとおり、体操の基本は「まげる・のばす・まわす」の三つであるが、この動作が上手く組み合わさっている。

 第三は、所要時間が二分三十秒とちょうど手頃なことである。

 

こんな短い時間で、気分が爽快になり健康に大変良くなった。

 局内での会合でも、あのメロディが流れると

 「まず体操をやろう」

ということで、ワイシャツ姿となって気分を一新し、また、仕事に戻るという姿がしばしば見受けられるようになった。

 体調を整え、ある程度体力に自信を持つことが出来るのも、林業体操のおかげだと思っている。

 

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第2章 営林局から 第12話「保安林買い入れ調査」

昭和二十九年度から始まった保安林買い入れも今年で十四年目。今回の買い入れ予定地は標高四百メートルから千百メートルまでの、約一千ヘクタールの天然林である。

 現地調査は五月末から九月上旬まで、五人の調査員が各人八十日の予定で行う。作業は境界確定から始まり、林相区分の設定、河川、峰、崩壊地などの測量、標準地による立木調査を行う。使われなくなった林業会社の事務所に仮住まいし、各人が寝食を共にする。

 

 刈り払った尾根を歩いていると、クマの糞にお目にかかることが多い。また、クマが腐った木の株を掘り起こし、アリを食べた跡を見かけることもある。

頭数が多いのはサルである。だいたい二十から四十頭ぐらいの群れに出くわすが、一人で山を歩いている時などは、あまり気分のいいものではない。

 数年前、境界標に番号を記入している時、すぐ目の前に、大きなサルがのこのこと現れ、じっと私のことを眺めていた。人間の仕草にさぞや興味がわいたのであろう。

 また、この地方はマムシの産地でもある。朝、二、三匹のマムシが、お互いに喧嘩をする訳でもなく、一箇所に仲良くトグロを巻いていることがある。不幸なことである。彼らは見つかったが最後、その場で皮を引き剥かれ、フキの葉に包まれリュックへと収納される。そして、休憩の際にはこんがりと焼かれ、我々調査員の明日へのエネルギー源となるのである。

   

 現地調査を重ねると、事務所からの通いではどうしても行けないところが出てくる。そうした時の天幕生活も、二日か三日であれば結構楽しめるが、一週間以上と長期に及んだり、連日雨模様であったりすると、いかに山官といえどもうんざりしてくる。外業から来る身体の疲れをとることが出来ず、それ以上に精神的な疲労を覚える。

 ただし、楽しみもある。あまりの奥地であるが故にイワナやヤマメは無数に捕れるし、秋が近づくと天然舞茸を味わうことも出来る。また、ドンコツ(カジカのこと)やアジメ(ドジョウの一種)などはバケツ一杯も収穫出来、これを山椒の葉と醤油で煮れば、手頃なおかずとなる。

 こうした時には疲れも忘れ、山官として楽しい一時を過ごせる。

 

 山の中で毎日を過ごしていると、同じ顔ばかり見ることから、たまに局署からの出張者に出会ったりすると何故か家族のことを思い出し、無性に懐かしさを感じる。

 今年の夏は、デパートでカブトムシが一匹五十円で売られているそうだが、夜、灯りの下にスイカの皮を置いておくと、大きなカブトムシが沢山飛んでくる。

 お盆休みに入ったら、子供達へのおみやげにと思っている。

 

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第2章 営林局から 第11話「狐の山案内」

ある営林署の林況調査に出かけたときのことである。

 いつものように案内人を一人連れ、午前中は何事もなく調査を終わり、本流の河原まで降りて昼食をとった。真夏の暑い日であった。案内人がイワナを見つけて手づかみにし、晩の肴にということで笹の葉に包んでくれたため、それをリュックサックに入れ持ち帰ることとした。

 午後は本流を下り、一つ手前の沢の林況調査である。その場所へは本流をそのまま降りれば確実に行けたのであるが、直接、峰を越えて行った方が早いと考え、調査地がある方向を目指して道なき急斜面をよじ登って行くこととした。

 

 しばらくして峰に出たが、調査地が見当たらなかったので少し登れば良いと考え、鉈で小柴を伐りながら峰通りを進んだ。   

ところが、いくら歩いても調査地が出てこない。おまけにネマガリ竹が出てきたので「ちょっと違うのでは」とは思ったが、案内人は土地の人であり山にも明るかったので、口をはさまずそのまま同行した。

 しかしながら、ネマガリ竹が次第に多くなり、調査目的であるヒバもまばらになってきたことから、案内人に

 「何だかおかしい。東に進むべきものを西に進んでいるようだ。太陽の位置から見てもそんな気がする。この辺りで一服してみたらどうだ」

と言ったが、案内人は

「そんな筈はない」

と自信たっぷりに返答し、前へ進もうとする。

私としては、初めての土地でもあり、案内人に対して明確に反対するほどの自信もなかったため

「疲れたからとにかく一服しよう」

と言いタバコを勧めた。

案内人は岩に腰掛け煙をくゆらせたが、私はタバコもそこそこに済ませると、地図とコンパスを取り出しては進行方向を確かめた。

思った通り、東ではなく西に進んでいたため、案内人に「やはりこの方向ではない」とコンパスを見せ説明した。

それでも案内人は半信半疑であった。「何か目標は見えないか」と言うと木に登り辺りを見渡したところ、幸いにして見慣れた崩壊地を遠くに見つけることが出来た。それは、私たちが宿泊している部落から東側に遠望出来るものであった。

このため、その崩壊地がある方向を目指して進むこととなり、我々は再びネマガリ竹が広がる尾根を歩き始めた。

 

 尾根は平坦であり、かつ、今度は方向も確かなことから、足取りも心なしか軽かった。

 緩やかな起伏をアップダウンすること四十分。なかなか初めに登ってきた峰筋にたどり着かないことから、少々心配になりかけた頃、うっそうとしたヒバの森が我々の前方に見えてきた。

 それは意外な場所であった。

 何故ならそこは、午後、初めに登った峰筋ではなく、午前中に調査した、一つ奧の沢の源流部であったからである。

 何故、こんな所にまで逆戻りしてしまったのか。二人はあっけに取られながら、どこで間違えたかそれぞれ思案した。

 

はっきりとした原因は分からなかった。

 地図を見ると、平坦な尾根へはいくつかの峰筋がつながっており、少しでも方角を間違えると別の沢へと降りてしまう。しかしながら、正しい方向に進んでいたはずなのに、全然違う場所にたどり着いてしまったのはどうしてであろうか。

 どうやら我々は、大きな尾根の中にある小さな峰の中腹をぐるっと一巡させられていたようである。山歩きにはそれなりの自信があった。それなのに、その時の我々は、自分たちの意志とは関係なく行動していたようである。

 原因は何か。色々考えたが、こんな初歩的な間違いをするからには、きっと別の理由があるからに違いない。

 二人で話し合った結果、それは我々のせいではなく、リュックサックにあるイワナにあるものと断定した。

  

 今日は蒸し暑い日であった。いかに標高が高くとも、夏の日差しに当たればリュックサックの中のイワナも蒸されて程よい臭気を出す。

 山の狐がそれを欲しくて我々を引っ張り回したに違いない。

狐が油揚げが好きだということは子供の頃から聞いていたが、山のイワナにまで手を出すとは考えてもみなかった。

 こんな無駄な山歩きをしたのも、結局は狐のせいだと二人で納得し、重い足取りで下山したのであった。

 

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第2章 営林局から 第10話「五つの湖に女性の名を残す」

国有林の「事業図」は営林署ごとに作成され、地形や森林の現況が克明に記入されている。職員が山に入るとき、姿なき山案内として大切な役目を果たすものである。

 かつては、営林局計画課の職員が、半年あまりも山の中にテントを張り、現地踏査をして事業図を作成したものであるが、そうした時、人跡未踏の地に踏み込み、図面上にない滝や沼、川にぶつかることがある。また、無名の山や川も至るところにあり、事業を行う上で、また、後々の目印として、どうしても名前を付けておかなければならない時がある。

 そこで、現地の作業員や古老に聞いたりして、その土地や自然にふさわしい名前を考えるわけであるが、斜里営林署の306林班には、何故か「幸湖」「貞湖」「玲湖」「瑠美湖」「雪湖」と名が付いた小さな湖がある。

 「さては、出張旅費を一晩で飲みきってしまう山男たち、馴染みの飲み屋の女性の名をつけたな」

と勘ぐって、当時から在局する計画課の古手に真相を聞いてみた。

以下、「私」とあるのは、これを話してくれた職員である。

 

 昭和三十八年、経営計画編成のため、私ともう一人の職員、それに作業の三人で八月中旬から斜里営林署の山に入った。

ちょうど一ヶ月ほど過ぎたある日、「真鯉林道から入って、沢伝いに遠音別岳へと登り、頂上から山の状況を見よう」ということとなり、林道の終点から沢沿いに登り始めた。途中、渓流に何度も足を滑らせ、背丈以上もある笹をかき分けて進むこと二時間、目の前にアカエゾマツの群落が出現した。太さ六十センチ、樹高九メートル、曲がりくねった太い枝はオホーツク特有の樹形である。

 更に一時間、緩やかな台地を東に進むが、登るにしたがって次第にハイマツが濃くなり、樹高五、六メートルのものが群生して行く手をさえぎる。幹をつたわりながら一歩一歩進むが、足取りが急に遅くなる。

 「頂上アタックは無理だ。小高いところを見つけ、そこで下界を見通そう」

標高は既に九百メートルくらいまで登っており、図面上ではここから少し上にハイマツ林から突き出た大きな岩があるため、その岩から下を見ることとした。

 

 雲一つない秋晴れ。前方遠くにはオホーツク海が見え、海岸近くには、斜里とウトロを行き交う車が土煙を上げ走っているのが見える。

 足元近くに目を落とすと、図面にあるとおり、緩やかな台地の中に七つほどの湖とも沼とも言えるような水面が見える。

そのうち、誰からともなく「この湖には名前がない。考えてつけようか」

ということになった。しかし、三人で考えたが、いい名前が浮かんでこない。

 「俺たちに文学的才能があるわけでなし、あまり深刻に考えず、気楽にいこう」

と私が言うと、待っていたかのように一人が

「どうだい、課の女性の名にしては」と言った。

そして、その後は

「あの湖は、形がいいから○○子ちゃんだ」とか

「なんとなく、おとなしく見えるから○○子ちゃんだ」

などケンケンガクガクの議論の末、「幸湖」「貞湖」「玲湖」「瑠美湖」「雪湖」と名前がついたのである。

 

以上が命名の模様である。一ヶ月以上も他の男の顔すら見ない彼らとすれば、この命名のひとときは、課の女性の顔がとても美人に思えたことであろう。

しかし、これではあまりに公式的である。何故、あの岩山の上で計画課の女性となったのか、その辺りの理由が不明確であるが、そのことに関して、彼は多くを語りたがらない。

 オホーツク海を遠く見下ろす静かな台地の中にあって、この五つの湖は、今日もひっそりと佇んでいる。

 

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第2章 営林局から 第9話「黒部の測量隊」

ここに、十数人のたくましい男たちがいる。

 彼らは五年間にわたって、夏の数十日を人跡未踏というべき僻村の山で過ごした。道をつけ橋を渡し、テントを張り便所を作り、自家発電所とドラムカンの浴場までしつらえると、いよいよ仕事にとりかかる。

 その仕事とは、明治三十七年に測量した際の境界線を現地で探し出し、これを再度測量し、確定していく作業である。推理の道具は六十四年前の測量簿と、そのとき誰かが残したであろう微かな痕跡。当時の測量隊が支障木としてした切り払った木や枝の跡や、木標を打った際の周囲の盛土などを手がかりとして、現地での測量を進めていく。

 

昭和二十七年から二十年がかりで行う境界確定は、富山県有峰ダムの最源流部、岐阜県との県境にある寺地山(一九九六メートル)を起点として、薬師岳(二九二六メートル)の脇をかすめて越中沢岳(二五九一メートル)を超え、常願寺側の源流を通り黒部ダムの平の渡し場へとつながる、標高差千メートル、延長二十七キロメートルの路線である。

明治三十七年に境界査定が行われて以来、手を加えることなく放置されてきたため、当時の木標は既に腐っていてどこが境界点なのか分からず、石標についてもただ一本、有峰ダム上流の旧登山道の脇で見つけることが出来たのみである。このため、現地で不明となった境界標を復元し、これを国土地理院が行った三角測量の測点につなげることで現地で境界の位置を確定し、かつ、その境界の位置を図面の中で明らかにしていく。

 

 技術面でのつまづきが早速やってくる。

 測量を進めていく中、明治三十七年の測量成果と現地とが突合しなくなってきたのである。現場担当者があらゆる角度から検討したが原因がはっきりしない。

 「六十年以上前の測量成果によらず、新しく現地で境界を決めればよいではないか。隣接地は北陸電力の所有地であり、話を容易にまとまるはず」

との意見も内部で出てきた。

 しかし、たとえ精度の良否はあろうとも、昔の測量成果がある以上、それを捨てるとは測量屋の意地が許さないし、国有林のメンツに賭けても乗れる話ではない。かくして、最新の空中写真まで持ち出し、これを図面化することにより、どこで間違ってきたのか原因を調べることとした。

 ある時、空中写真を見つめていたO君が

「この細い線は何だろう。写真の焼き傷ではない、境界を伐開した跡ではないか」

と言う。

「そうに違いない」

 早速古い成果と並べて見ると、部分的によく一致している。

 空中写真にある僅かな細い線を頼りに現地を踏査すると、当時の測量簿から導き出した測点から一メートル程離れた場所に、ちょっと土が盛り上がっている箇所があるではないか。早速、スコップで掘り起こすと、真ん中に木標を打った痕跡が出てきた。そういう時の喜びは、技術屋として格別なものがある。

 無論、それぞれ自分の技術には絶対の自信を持っているが、こんな所が果たして境界線なのかと疑問に思う時には、昔の物の拠り所がないと、なかなか安心出来るものではない。

    

現地での測量は、毎年、梅雨明けから九月上旬まで連続して行われるが、八月十三日から十六日までは富山地方のうら盆となるため、一時的に下山する。南極観測隊やヒマラヤ登山隊などでは、一つのパーティがある期間、外部から隔絶された所で一切の作業を進めていくが、国有林の測量現場でも、もちろん規模も質も違うが同じような共同作業が行われる。

三日か四日の楽しみで行うキャンプと違い、数十日にも及ぶ天幕生活の不自由さを辛抱しながら仕事を続けるのは、並大抵の忍耐ではない。

 ベースキャンプから現場が離れると、五、六食分の米と缶詰、それと寝袋と着替え、測定の器械を担いでゴロンする。ゴロンとは簡易テントで寝ることであり、笹をひいては寝袋にもぐるのである。稜線に近いため水場がなく、炊事の水を運ぶのが精一杯という時もある。食事の内容も材料が限られているので、毎回、変わりばえのしない物ばかりである。

 同じテント生活であっても、ベースキャンプではおばさんの手料理が食べられる。ドラムカンの風呂にも入れる。場所によっては岩魚釣りが出来、面白いほど釣れる時もある。岩魚の刺身はおつなもので、トリスのキングサイズを舐めながら焚き火を眺め、いつしか眠りにつくのである。

 

 測量の仕事は、まず境界線の伐開から始まる。伐開作業は測量が出来るよう見通しを良くすることが目的であるが、登山道が整備されている訳ではないので、藪笹の中を鉈と鎌だけで切り開いていく。朝露でびしょぬれになり、山うるしに悩まされながら、二十七キロメートルの境界線を、山を登り沢を下っては一歩一歩進んでいく。

「やはり伐開作業が一番疲れるね」

「そりゃそうだ。全力投球だもの。体全体を動かす仕事だからな」

 作業員の声が、背丈以上もある藪の中から聞こえてくる。それを追いかけるように、職員が測量道具を担いで登って来た。測量機器も徐々に改良されてはいるが、山岳測量の場合、結局、重い機材を持ち歩くことには変わりはない。   

「この仕事の中で、測量だけは楽だね」

「そりゃそうだ。ただポールを持って突っ立っているだけだから」

 測量が始まると職員は真剣であるが、作業員は言われるままポールを持つだけであり、心なしか笑顔も見られる。

 

 測量の最大の敵は雨ではなく、ガス(霧)である。ひとたびガスが出てしまうと測量はお手上げとなり、三日で終わる予定が、四日、五日と延びてしまう。場所によっては、朝の九時半頃にはあたり一面がガスにすっぽりと覆われてしまうこともある。

「明日は二時半起床で、三時に出発したいがどうか」

と職員や作業員に声をかける。

みんな慣れたもので反対などない。自然相手の仕事である。苦労して登る以上、仕事は最大限進むことを誰もが期待している。

 むしろ、こうした高い山に登ると御来光を拝めることもあり、美しい朝の光を背にして仕事をしている時などは、苦しみもあるが楽しみの方が大きく感じられる。

    

 測量が終わり測点が決まると、次に境界標の埋設作業が待っている。腐朽した杭をコンクリート標や合成樹脂標などの永久標に切り替えていくのである。

「初めは測量の仕事だけかと思っていたけど、コンクリート標を背負って歩く仕事があるとは思わなかった」

一本十五キロもあるコンクリート標を運ぶ作業はつらく、それだけに山岳林の測量は若くて頑丈でないと勤まらない。       

 測量の仕事は、山の奥地で行われる地味で厳しい仕事であり、木材生産とか造林の仕事のように成果が目に見えて残るものではない。しかしながら、他人の財産と国有財産との境界を明らかにするという重要な職務である。

「この仕事は天職だと思っているし誇りも持っている。だから、やり終えた時は自分なりに満足しているし、満足しているからこそ、つらい仕事も勤まっているのかも知れない」

    

 露に濡れ、重い荷物を背負って山を登り沢を下ること数十キロメートル。国有財産の礎となるこれらの困難な仕事に汗する山男たちは、今日も境界線を歩くのである。

 

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