昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第1章 現場から 第8話「担当区主任」

 営林署の担当区は、たいがい本署から離れた村落に位置し、比較的小さな部落にあることが多い。部落の住民とは各種事業の雇用や、自家用薪炭の売払などで密接に結ばれているが、従前のように官尊民卑の気質はなくなったとしても、純朴な住民にはまだまだ担当区主任と自分との間に大きな距離を感じている者が少なくない。

 また、勤務地が辺地であればあるほど、担当区主任は名士扱いされるようである。東北地方では、担当区主任が駐在警察官、東北電力散宿所員とともに「東北の三だんな」と言われているらしいが、道内では「分担区のだんなさん」とか「分担区さん」、「林務さん」などと言われてきており、今でも「営林署のだんなさん」と呼ばれることが多い。

 ことほどさように、担当区主任は辺地では名士のうちに入っていることは確かであるが、部落の戦没者慰霊碑建立資金の奉加帳が回ってきた時、最初に地元の製材工場主が一万円、次に部落の百貨店主五千円、それから小中学校長三千円とあり、次いで私のところに来られた時は、目をパチクリしたものである。

 

  こうした担当区主任の一挙一動は、まわりの注目の種になる。部落からの心象が良いところならばまだしも、万一、心象芳しくないところに配置されると、たとえ誠心誠意業務に当たったとしても、一部の住民の心象を損ねようものならそれこそ百年目、ましてやこちらに落ち度でもあろうものなら、営林署への投書が矢継ぎ早に行われる。

 幸いにして、こうしたひどい目には会わずに済んできたが、担当区在勤中は、「男子門をいずればこれ敵中」で二十四時間気の休まるときはない。

 とにかく、いつでも、どこでも、誰にでも真心をもって接すること、すなわち「人間性でぶつかっていくことがいかに大切か」ということを、担当区勤務中、身を以て体験させられた。

 

 営林署の宿舎では、朝七時ごろまでカーテンが閉められていることも珍しくないが、担当区事務所では、この時刻には作業員が既に現場に出ているから、とうに起き出している。外を見ては空模様を心配し、天気予報の時間にはテレビやラジオにかじりつき、こうして担当区の一日が始まる。

 また、お天気が続けば苗木が枯れないかと心配する。雨が降れば降ったで、内勤していても、作業員が「濡れているだろう。滑って怪我をしてはいないか」と心配が続く。長雨となれば、根腐れはとか、造林小屋が流れないかということにもなる。苗畑を受け持っていようものなら、晩霜、早霜と春秋二回は夜九時過ぎまで寒暖計とにらめっこしなければならない。

 さらに、本署ではいくら公用の来客があっても昼食や退庁時刻には退散願えるが、事務所兼自宅の担当区で地元住民を相手にしていれば、「時間ですからどうぞお帰りを」とは言えず、しびれを切らすこと月に一、二度は覚悟しなければならない。

 春植最盛期の五月に義弟の訃報を、加えて造林事業終了を二、三日後とした十一月には姉の訃報を故郷のF県から知らされながらも、一週間以上も担当区を空ける訳にはいかないと諦め、南の空に一人手を合わせたことも今となれば思い出の一こまに過ぎない。

   

 長いこと山役人をやって、どの時代が一番おもしろかったかと聞かれたとき、私はいつも同じ答をしている。

 「苦しくもあったし、自分の力のなさに嫌気をさしたこともあったが、今から思ってみると、署長時代と、担当区主任時代とが、仕事としては一番愉快だった」

 仕事は小さくても、一つ一つの仕事を自分で思うように出来るということは、やはり楽しいことであり、担当区主任の仕事の喜びがここにあった。

 

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第1章 現場から 第7話「わしらの植えた山はどうなったろう」

 明治三二年から大正十年までの国有林野特別経営事業は、我が国はもとより、世界の林政史上においても特筆すべき大事業であった。この事業の完成によって、国有林経営の基礎が出来上がり、今日の国有林野事業特別会計の大きな財源となっていることは今更言うまでもない。

 熊本営林局管内でも四万三千町歩の造林がこの事業によって行われており、本日は、その特別経営時代の造林事業に従事した方々に当時の思い出を語って頂いた。

 

(司会)

 昔、植えられた山を見た感想を。

(計佐太郎さん)

 苦心して植えた山がこんな立派になったかと、懐かしく思いました。それと、集材や運搬の設備を見てびっくりしました。昔はトロリー軌道まで落としおったもんです。板に挽いても割れてしまって、商人も困ったそうです。

(司会)

 地拵えは、火入れでしたか。

(キワさん)

 火入れでした。雨が降ると燃えないでしょう。寄せ焼きして、大きな枝は鋸などで伐って焼いたものでした。木炭を焼いた跡を植えていたので、残っている木は大きなものばかりでした。そのまま置いていては、植えるところがないんですよ。

(司会)

 ここから歩いて行ったんですか。

(松次郎さん)

 普通泊まり込みでした。味噌、醤油、野菜、鍋、釜、簑(みの)などをカゴに入れ、最初の日はまだ夜の明けないうちに歩いていっておりました。せいぜい一週間か十日分しか食料を持てませんでした。苗木は下から馬に乗せて持ってきておりました。また、牛でも運んでいました。

(司会)

 その頃、植える方法はどのように教えられましたか。

(忠次郎さん)

 定規はありましたが、定規のようにはいきませんでした。主任さんやら監督さんのおられる時は、やっぱり念を入れて植えよりましたけど、おらん時はザッと植えて人に遅れんようについて行きました。そういう時に限って監督さんに見つかって叱られたものです。それでもよく活着しておりました。今日見てみるとつきが良すぎて、少し本数が少ないともう少し太っておったかも知れません。ヒノキを植える時は、葉の表をお日様の方に向けて植えるように言われておりました。

(司会)

 今はそれは言わないですね、自然に向きますから。続いて、下刈りの方法は。

(忠次郎さん)

 横刈りです。腕のいい人は伐り幅を広く、腕の落ちる人は狭くするとかしてやっておりました。

(司会)

 当時の主任さんは、一週間のうち何日位山に泊まっていたのですか。

(キワさん)

 毎日泊まっておられました。主任さんの食事は女の人が代わる代わる焚いてあげていました。

(松次郎さん)

 時間中はぐるぐる回って指導したり、適当な場所を見つけて見張っておりました。たいがい尾根筋におられたですね。あんまりやかましい主任には、わざと上から石をころがしよったもんです。しかし、わざとやらんでも傾斜のたった所では転がりますよ。下刈りの時はあまりころげませんが、植付けの時は、堀った石がよく転げました。

(司会)

 補植はやっていましたか。

(松次郎さん)

 枯れた程度によって違いますが、新植した翌年は必ず補植していました。

(司会)

 苗木は今と同じ位の大きさでしたか。

(計佐太郎さん)

 今より大きな苗木でした。実生苗がほとんどで、それも吉野スギでした。

(司会)

 山泊まりの時、晩は何をして過ごしておられましたか。

(松次郎さん)

 草鞋を作るくらいのものでした。夏でも薪をたかないと灯りもない時代でしたから。

(忠次郎さん)

 山まで焼酎を背負っていく余裕もなかったし、お金もなかったから、飲みたくても荷物が多くて背負っていけなかったですね。

(司会)

 一年のうち、国有林の仕事に何日位出ておられたんですか。

(忠治郎さん)

 植付けと下刈りを合わせて五十日位じゃないでしょうか。

(司会)

 国有林の仕事に出られて、今でも思い出に残っていることはありませんか。

(キワさん)

 あまり面白いことはなかったです。骨の折ることばかりでした。

 

 この特別経営時代に造林された美林も、国有林の木材供給という使命を果たすため、遠からず姿を消してしまうこともまた事実である。宮崎県児湯郡から来て頂いた、明治二十年代生まれの方々による貴重なお話であった。

 

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第1章 現場から 第6話「冬のパイロットフォレストを守る人たち」

 標茶営林署から二十二キロメートル。湿原地帯に阻まれたため、かつては人跡未踏と言われたこの無立木地も七千二百ヘクタール余りの巨大な造林地となった。

 事業の最盛期にはたくましい機械の音に加え、連日、見学に訪れる人たちで活気を呈するこのパイロットフォレストも、今は深い眠りにつき静まりかえっている。

 この広大な造林地を、冬の猛威と闘いながら、野ウサギや野ネズミの被害から守り続ける越冬隊は八名。太田造林事業所に詰めながら、毎日、地道な作業を続けている。

 

 まず、今年ほど雪の少ない年はない。

 野ウサギの捕獲は、その足跡を追って通り道に針金のワナを仕掛けるため、ある程度の雪が降ってくれないと野ウサギが自由に跳ね回ってしまう。野ウサギの通り道が固定しないと、仕事がやりにくくて仕方がない。

  事業所近くの造林地は、木が大きく成長しているため被害も少ないが、若い造林地は野ウサギにとって絶好の餌場となる。野ネズミのように毒餌散布により一網打尽する訳にもいかないため、とにかく林内を歩き回り、野ウサギの通り道のようなところを見計らっては伏せわなや三角わなを仕掛けるしかない。それでも、二月六日現在で二百羽近く捕獲したが、相手は雪がないことを幸い林内を跋扈する。

  今年の見回り面積は千五百ヘクタールで、これまでに六百ぐらいのわなを仕掛けた。これを見回りに行って、野ウサギが二羽でも三羽でもかかっていると、私たちがやっている仕事も無駄ではなかった感じる。

 野ウサギは、昔から見るとかなり減ってきたが、厚岸町の牧場にはまだ相当数が生息している。お隣の大湿原が冬に凍結すると、ウサギはこちら側に渡ってくる。渡ってしまえば、パイロットフォレストは南斜面にあることから日当たりも良く、カラマツなど餌も豊富にあることから、彼らにすれば天国そのものである。

 

 もう一つの脅威は山火事である。

 二月の山火事など、普通、道東地方では普通考えられないが、今年は数十年来の暖冬で積雪がなく、パイロットフォレストに近い浜中町釧路市の原野では野火が発生している。造林地で出火すると大面積を消失する危険があるため、越冬隊は毎日、望楼に登って周囲を確認する。

  また、大面積の一斉造林地を成林させるため、全域を五十ヘクタールほどの単位に分け、観測地点を設けている。そして、これを周期的に回っては、特に恐ろしいテングハマキ、胴枯病、落葉病、先枯病などの被害がないか注意を払いながら調査する。野ネズミについては、観測地点を更に細かく分け、早期発見、早期防除に努めている。 

 端的な言葉で言うと、造林地の健康診断。これを徹底的にやるしかない。

 

 私たちは、パイロットフォレストの事業が始まって以来、ここで勤務しているが、初めて植えたカラマツが六メートルにもなったのを見ると、よくもこんな湿原地帯で立派に育ったものだと思うと同時に、カラマツの成長に対して何とも言い難い力強さを感じる。

 夏は造林や保育に、冬は保護にとこれからも体が続く限り仕事を続けたいと思う。

 

 村上君がこんな話をしていた。

 三十四年四月、パイロットフォレストに火が燃え移ろうとした時、二晩中消火にあたったことに対し、釧路営林署が林野庁長官から表彰を受けたことがある。

 その時、カラマツの葉に「功」と入ったネクタイ止めを百個頂いたので、防火の関係者に配ったところ、ある担当区さんから

 「私たちだって三日も寝ずに山火事を防いだことがあるのに、その表彰はどうしてくれるんだ」

と言われた。

 もちろん、言った担当区さんは冗談だったろうが、その時は本当に心苦しかったと。

パイロットフォレストには大勢の視察者も来るし、完成式典もやってもらえたが、俺たちの作った山は誰も見に来ないし、記念式もない」

という冗談話をチラッと聞いた。

 これが冗談でなくなったら大変である。

 造林の成果を支える努力には、どこの山でも二つはない。

 

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第1章 現場から 第5話「昼のいこい」

 担当区主任の楽しみの一つに、現場の作業員と食べる昼食がある。

 午前中の仕事の疲れをとり、空腹を満たす。この時間の仕事の話に混じった雑談がまた面白いもので、飲む話から食べる話、遊ぶ話にさては女性の話と、時がたつのも忘れるほどである。

 

 「主任さん! 主任さんほどええ仕事はないのう。たまに山に来て、ええ運動になるし、ええ空気は吸えるし」

 「あほう言いな。こんな合わん、馬鹿みたいな仕事はないぜよ。上のもんにはやかましゅう言われたり、怒られたり。下のもんには文句を言われてあわん仕事よ、おまんらあのほうがずっとましよ。鎌を一日振っていたらええ賃になって。奥さんばあのもんじゃろうがよ、おまんにやかましゅういうたり、おこるもんは」

 「わしらあは鎌を振るしかのうのない男よ、おかあの腹から出てくる時から鎌を下げて出てきちょるきに。主任さんはエンピツとソロバンを下げて出てきつろう」

 「あほう言いな、まあ一升徳利よ、ハハハ・・・」

 

 また、ある作業員が言う。

 「主任さんは、若いきにええのう、これから先なんでもなれるきに」  

 「そんなことがあるかよ、こんな仕事をして小使いで終わりよ」

 「そりゃ、違えぜよ。わしらあばあ年がいっちゃせんきに、わしらあばあ年がいったらもういかん」

 「そんなに年もいっちゃあせんがあ、まだまだこれからよ」 

 「いや、もういかん・・・けんど、わしらあも若いときゃ、何ぞにならんといかんと思いよったが、そうこうするうちにおじいになったが」

 「ハハハ・・・ありゃ、もうこんな時間かよ。ほんだらそろそろ仕事を始めるかよ」

 

 レクリェーションにもなり、安全作業にもつながり、私の唯一の楽しみである。

 

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第1章 現場から 第4話「ナンコ」

 発電所が鳴らす五時のサイレンが聞こえてくると、短い冬の日の太陽は、早くも峰筋の保護樹帯の上に傾いていた。

 二十ヘクタールに及ぶこの小班の植え付けは今日で全部終わり、明日からの作業は反対側の谷へと移動する。

 「寒いなあ、一杯やろうか。今日でこの谷の仕事も終わったことだし」

 すると、呼べば答える山のこだまのように、班長の重ヤンが言った。

 「よかろう。お前、一走り頼むよ。俺たちは、下で火を焚いて待っているから」

  こんな話は、たちどころにまとまるものである。指名された富ヤンは、村の酒屋までオートバイをブッ飛ばすべく、下山する列から離れて小走りに下って行った。

 

 勝チャンの提案に従う組は十人。昼飯の時に囲んだたき火の周りに青葉のついた柴を敷き、その上に腰を下ろす。たき火の上には、湯沸かしで使う真っ黒に焼けた薬缶があり、そこに焼酎を一升入れ、燗をつける。二十度の焼酎は、一日の仕事を終え疲れ、空腹となった体の隅々へとよくしみ渡っていく。

 最初の一升がなくなる頃には、辺りはもうすっかり暗くなって、山の稜線が薄墨を流したような夜空におぼろに浮かび、その上には星が輝いていた。

 

 「ナンコやろうや」

 担当区主任が言い出した。

 ナンコとは、酒の座で行われる遊戯の一種である。一対一で盃をはさんで向かい合い、手の中に何本かのナンコを握り隠して相手に差し出し、互いが握る本数を当て合う。そして、負けた方が焼酎の盃を飲むのであるが、この地方では、これが出ないと酒宴の席が締めくくれない。

 ナンコで使うナンコ玉は三分三厘角、長さは三寸三分の木片と決まっているが、山の中だからそんなものはありはしない。

 「富やん。ナンコ玉切ってこいよ。河原に行けばヤナギか何かあるだろう」

 「よしきた」

  富ヤンは、腰鉈を持って川へ下りていくと手頃なナンコ玉を用意し、早速ナンコが始まった。

 主任はもちろん、和チャンも春チャンも女だてらにナンコ玉を握っては、たき火の脇で大きな声を張り上げ、お互いに握っている本数を怒鳴り合った。そして、負けては弁当箱のふたに入った焼酎をすすり、結局、二本目の焼酎を飲み干すまでナンコが続けられた。 

 事態は翌日に起きる。

 主任が顔に異常を感じ始めたのは、翌日の午後だった。

 顔全体が火照ってかゆくなり、次第にブツブツした吹き出物が出てきた。無性にかゆいので爪でガシガシかくと、やがてタラタラと汁が出てくる。

 そのうちに目もだんだん腫れぼったくなってきて、夕方頃には完全に見えなくなってしまった。

 奥さんが塗る薬は汁に押し流されてしまうため、やむなく脱脂綿に薬を塗り、それを顔全体に貼り付けたが、そんな姿は他人には見られたくないし、第一、目が見えないから仕事にならない。

 営林署の庶務課長には病気届を出し、事務所で一週間にも及ぶ面会謝絶と相成った。

 見舞いに来た班長の重ヤンによると、和チャンも勝チャンも仕事を休んでいるという。忠サンもやられてはいるが、真っ赤な顔をして出てきているらしい。主任は、これまでの経験から、自分のかぶれが「ハゼ負け」によることは分かっていたが、班長の話を聞くまでどこでかぶれたのか皆目見当がつかなかった。

 原因はナンコ玉だったのである。

 

 あの晩、富ヤンが川に下りていくと、手頃な太さの灌木が見つかった。冬だから葉はついていないし、ましてや暗いことから、適当な長さのものを選んでは鉈で伐り三寸位にそろえると、丁度良い加減のナンコ玉が出来上がった。 

 勿論、それがハゼの木であることは、彼自身も外の誰も、考えもしなかった。

 そのナンコ玉を持ち、用意した焼酎が無くなるまで、負けては焼酎をすすっては、ハゼの木の汁の付いた手で口のまわりを押しぬぐったのである。

 

  この話には後日談がある。主任の病気は顔だけではなく、実は彼の大事なせがれも同じ病に冒されていたのである。結婚後、まだ半年ばかりの新妻にはさすがに言えず困り果てていたが、幸い、顔よりも先に全治したため、奥さんには悟られずに済んだという。

 また、病状その他についても、庶務課長にはとうとう知らせなかった。ハゼの木でナンコをやって負けたなんて、恥ずかしくてとても言えたものではなかったからである。

 

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第1章 現場から 第3話「雑草に挑む」

 五時三十分に雨戸を開ける。家の前には標高四百メートルの前岳国有林

 その頂きには朝日が当たり、空は青く澄んで雲ひとつない。

 今日で何日、雨が降らないのであろうか。

 慌ただしく朝食を済ますと車に飛び乗り、作業現場へと急ぐ。林道の終点から、谷川に沿って歩道をさかのぼること一時間、やっと現場にたどり着く。

  休む間もなく鎌研ぎが始まり、十一名がいっせいに、背丈以上もある雑草に挑んでかかる。

  照りつける太陽とむせかえる雑草の匂いが、むんむんと鼻をつく。雑草の中から顔を出すスギの木。太陽の光を浴び、いかにも嬉しそうである。

  仕事始めの頃には聞こえた話し声もいつしか途絶え、ただ、草を刈払う音だけがバサッ、バサッと聞こえるだけである。汗の量と作業の進み具合が比例する。

 

 十時の休憩が来た。

 大きな声で「タバコ」と叫ぶと、早速、腰の水筒を外して飲む。

 うまい。

 近くの同僚にも水を回す。一回りすると最後の者が「班長、アイガトゴワシタ(有難うございました)」と言って水筒を返す。

 喉の渇きをうるおして一服するうちに、作業始めの時間だ。

 「オーイ、かかれ」

と大きな声で叫ぶ。

 元気を取り戻したのか、鎌の音も大きい。太陽は頭の上で容赦なく照りつける。吹く風も蒸し暑い。次第に鎌の音が弱くなってきた頃、一番年長のAさんがお茶の準備にかかる。暑い最中の仕事だけに、昼のお茶をみなが楽しみにする。

 

 「作業やめ」

 やっと昼が来た。

 木陰の涼しいところにあるテントに向かって、皆がぞろぞろと下りてくる。この現場は、幸いにも谷川がそばにあるので大助かりだ。

 顔や手の汚れを洗い落とし、びっしょりと濡れたシャツをザブンと洗うと昼食にかかる。フーフー吹きながら飲む熱いお茶がおいしい。食事が終わると、あちこちで弁当箱を枕に昼寝が始まる。

 疲れをとるために、ひとときでもいいから寝ることにしている。今ではこれが我が班の習慣となっており、昼休みの雑談は禁物。少しでも眠れば昼から調子がいい。

 生まれつき寝つきのいい私は、横になると五分もたたないうちにイビキをかく。

 「はやいもんじゃ、もう眠ったぞ」

 みんながいつもひやかす。

 時計の針が一時をさす。

 誰となく

 「ドーラ、ガンバランナネ」

と言って立ち上がる。

 二時、三時とうだるような暑さが続く。空には雲一つない。

 「雲よ出よ、涼風よ吹け」

と思わず誰かが叫ぶ。

 

 暑い暑いと言っている間に、時計は五時近くになる。太陽も西に大きく傾いている。

 「作業やめ」

 この一言を待ちわびていたのか、皆の顔がゆるむ。汗びっしょりの顔に、目だけが光っている。

 一日の労苦が一目で分かる時だ。

 「今日も暑い中頑張ってくれて、ご苦労さん」 

 心の中で皆にそう言いながら、一列になって山を下りる。

 下刈りの済んだ箇所を通ると、列の一人が言う。

 「ヤツパイ、山はハヨハルタガヨカドナ(やっぱり山は早く下刈りした方がよい)」

 これを受けた一人が

 「ソラ、アタイマエヨ。ハヨシテカキノランコチャネーと昔の人がいうじゃねー(そう、当たり 前よ。早くして間に合わないことはないと・・・)」

と言う。笑い声とともに列が進む。

 

 一杯の焼酎を飲んで、明日もまた頑張りたい。

 

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第1章 現場から 第2話「不思議な灯」

 昭和二七年十月。当時私は、鳥取営林署管内の霧ヶ滝森林鉄道敷設工事の監督補助員として、主任と共に現場近くの山小屋に起居していた。

 バスの終点である田中部落から二キロ奧に貯木場があり、そこから森林鉄道で再び二キロ上がった川向かいにその山小屋がある。山の中の寂しい一軒家であり、無論、電気などはなく、夜はランプ生活である。

 

 事件が起こった当日、主任は打ち合わせのため朝から出署し、夕方帰る予定であった。

 私は自炊による山菜料理を作ると、主任の帰りを待った。谷間の日が落ちて幾時も過ぎ、時計は既に九時を回ろうとしている。バスの最終時刻から計算しても、主任の帰りが余りにも遅すぎる。心配する気持ちに寂しさも加わり、私は森林鉄道の方をぼんやりと眺めていた。

 その時である。

 森林鉄道の軌道の上を、輝きを失った薄暗い懐中電灯を振りながら、こちらに近づいてくる人影が見えた。

 森林鉄道の軌道から川をまたぐため、五メートル程の丸太がかけてある。

 「あんな薄暗い懐中電灯で、もしも主任が丸太橋から落ちでもしたら」

と思った私はカーバイトランプを提げて川向こうの軌道に急いだ。

 その間も、薄暗い橙色の光は、丸太橋へと間違いなく近づいていた。

 足元を照らしながら丸太橋を用心深く渡った私は、当然、そこに主任が到着しているものと思っていた。

 しかし、森林鉄道の軌道上に立った私のランプに照らし出される範囲には、どちらを向いても人影らしいものが全く見当たらない。

 「おかしいな、ひょうきんな主任のことだから、その辺に隠れて私を驚かすつもりかな」

と思ってしばらく辺りを見回したが何も見えない。

 

 キツネにつままれたとは、まさにこのこと。

 冷たいものが背筋を走り、今まで体験したことのない恐怖感が全身を襲ってきた。橋を渡るまで確かに見えていた灯りが、橋を渡り終えた途端に消え失せるなんて、到底考えられない。

 私は探した。恐怖心を抑えて探し続けた。しかし結果は徒労に終わった。結局、錯覚だったのかも知れないと自分に言い聞かせて小屋に戻り、予定の時刻を過ぎても戻らない主任を恨みながら一人で遅い夕食をとった。

 それから三〇分後、明るく輝いた電灯を持った主任が

  「貯木場で話し込んでしまい、遅くなってしまった」

と言いながら帰ってきた。

 私は、今までの出来事を一部始終話したが、期待していた同情も慰めの言葉もなく

 「目の錯覚だよ、ハッハッハ・・・」

と一笑に付されてしまった。

 私も不本意ながら、錯覚であったと信じることにした。

 

 工事も完了し、その小屋を引き上げる日、主任は、小屋の前の軌道を敷設する工事で作業員が一人死んだこと、そして、私が見たような灯りを主任も見たことを話してくれた。 

 そして、私がこんな山中でのランプ生活を怖がらないよう、目の錯覚ということにしたとのことであった。

 常識では考えられないような不思議な出来事に、山中での生活は時に遭遇することがある。

 時折聞くことのあるキツネ灯の話を、私は頭から否定することが出来なくなってしまった。

 むしろ、キツネ灯という言葉で表現されている何らかの発光現象を、今もどこかの山中で誰かが見ているかも知れないと思う。

 

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