昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第8章 特別編 第39話「苫前羆(ひぐま)事件(二)」

 この巨熊による被害は、僅か二日の間で死者六名、重傷三名となり、北海道史最大の獣害となった。

 苫前村は隣接各村長に救護隊の要請を行うとともに、羽幌警察署や御料局羽幌出張所に動員を依頼した。十二日には本部を編成、延べ二百七十人、鉄砲六十丁が集められた。

 しかし、クマは開拓地付近の山林に数カ所かくれ場を持ち、東に攻めれば西に逃げ、西を攻めれば東に回る、といった有様で手の下しようがなかった。

 そして、クマの出没来襲に定理のないことを知らされた彼らが新たに心配し始めたことは、この好天が崩れた場合、ますますクマの発見が困難となり、場合によってはこのまま冬眠されてしまうということだった。

 このため、討伐隊は、ここ一両日中に決着をつけねばならなかった。

 

 本部では、これまでのクマの習性、執拗さなどから喰い残しを必ず探し求めに来ると判断。やむを得ない措置として、遺骸を囮として誘い出す方法を用いることとし、十二日の夕刻から明景の家で張り込むこととなった。

 遺体を床の中央に集積し、その上部に頑丈な梁を設け、夕方からまず六人が乗り込んだ。

待つことしばしば、果たせるかな、どこからともなく接近してきたクマは二度、三度家の周囲を巡り始めたので、あわや発砲せんとしたところ、たちまち家の壁の陰へと回り込み、ついに発砲の機はつかめなかった。

 内部の異常な様子を感じ取ったクマは、見事この罠をもすっぽかしたのである。なんという鋭敏な洞察力であろうか。

 

 翌十三日は、日の明るいうちはクマの出没もなく、討伐隊も、一挙に山狩りをするしかないとの見方を強めてきた。

 しかしながら、クマは、こうした動きを嘲笑うかのように、夕方になると避難して空き家となった農家を次々と襲い、身欠き鰊や鰊漬け、雑穀類を喰い荒らし、また、ニワトリを手当たり次第喰い殺した。

 その上、夜具、衣類、家具に至るまで破壊の限りを尽くし、八軒中六軒までが寝間を打ち破られた。

 そして、同じ日の夜遅く、クマは暗黒の谷間を下り、討伐本部がある本流付近にまで到達した。

 一方、隊員の合い言葉は、いかなる場合であってもクマに本流を渡らせぬということであった。万が一にも、この広い原野にクマが渡れば図り知れない災害が予測されたからである。

 

 この晩、本部の見張り数人が、向こう岸に僅かに動めく黒い塊を見つけた。

 十数人の隊員が駆けつけ、緊張して見守るうちに、今度は芝を敷き連ねた仮橋を踏む異様な物音が聞こえて来たので、人間ではないことがはっきりとしてきた。

 羽幌分署長が「人か、クマか」と鋭く三度質したが、何の返事もないので、十数丁の鉄砲が一斉に火を吹いた。

 この瞬間、黒い塊は河岸をひとっ飛びにし、もと来た雪原に姿を消した。月明かりに見えたのは走り去る雪煙りのみで、その早業に並みいる者はみな舌を巻いた。

 

 十四日は早朝から好天となった。彼らは夜の白むのを待ちきれずに対岸に行ってみると、雪上にはクマの足跡と血痕数滴が散らばり、昨夜の被弾が確認された。そして、足跡を辿るにつれ、やや千鳥足の跡となっていることが分かり、一同はますます元気づけられた。

クマは二キロほど歩き、辻の沢付近から方向を変えて尾根沿いに国有林を駆け上がっていた。いよいよクマの近いことを見抜いた一行のうち十数人の射手が遠巻きに包囲した。その中には、鉄砲打ちでは天塩国にこの人ありと噂された山本兵吉も交じっていた。

 彼は、雪上を苦悶するクマを山頂からいち早く見つけ、二十メートルほど接近し、ニレの木に身を寄せた。クマはナラの大木の幹に支えられるようにして、山裾の討伐隊を睨み据えていた。

 クマは山本には気づかなかったので、彼は、頃よしとばかり怒りの初弾を見舞ったところ、ものの見事に命中、クマは大きくのけぞりざまドンと倒れた。

 これを見た山裾の隊員たちが思わず万歳を叫ぶと、死んだと見えたクマが再び立ち上がり、大音声を発し山本を睨みすえた。

 付近のマタギがあわてて銃を構えたが、山本の発する第二弾がいち早く巨体を打ち抜き、さしもの魔獣もばったり倒れ、口から血を吐き、ほどなく命を絶った。

 銃声の残響が木々の間をこだまする中、隊員たちが続々と集まり、すでに息絶えた魔獣を囲み、驚喜の歓声を上げた。

 このクマは黒褐色のオスで、身の丈二メートル七十、体重三百四十キロに及び、胸間から背にかけ袈娑掛の大白班を交えた見事なものであった。

 午前十時頃、数人の若者たちによって、クマは、二百メートルほど下の道路までシバ橇で引き出された。

 

 引き出してほどなく、一天にわかにかき曇り、一寸先も見えぬ大暴風雪となった。  

 この嵐は苫前村を中心に西海岸一帯に及び、同日夕刻に至るまで寸時も止むことなく終日、荒れ狂った。風速は四十メートルとも五十メートルともいわれ、林は揺らぎ莫大な被害を出し、海も大時化となって、家屋倒壊などの大被害を出すに至った。

 人々はこれを熊風と呼び、後世まで長く語り伝えられることとなった。

 これはクマの暴挙が天の怒りに触れ、その昇天を拒んだためと取り沙汰されているが、一説には、クマの怒りが嵐を呼んだものとも言われている。

 十二月十四日は、古老によると例年、不思議と天候が良くないそうである。

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