昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第6章 地元と国有林 第28話「初雪の木曽谷」

「管理官の急用は、いつも深夜の電話から始まる」

木曽谷の駐在とは会う度毎にこう言われる。本当に申し訳ないと思うが、田島から奧、八百余人の大世帯を世話しているのは営林署の事業用電話しかない。このため、事故が起きるとこうして駐在に電話をかける訳だが、不運にも大きな事故は決まって夜中に起きる。

酒酔いで旅館のガラス戸を割ったのは夜の十一時頃、ある事故の検視を依頼したのも深夜、飯場で凶器を振り回して暴れたのも深夜、モーターカーが御岳湖に飛び込んだのも寒い冬の夜であった。

 そして今回の件でも、結局、駐在さんに深夜、電話することとなってしまった。

 その日私は、御嶽山の五合目にある、初雪の白衣装をまとった小さな旅館に泊まっていた。

 夕刻、若い女性がハイヤーから降りた。二十五、六歳位の魅力的な女性である。和服姿で羽織なし、小さなハンドバック一つの一人旅である。御岳信者の白装束一人旅なら時々見かけるが、どう考えても場所と時期に、女の晴着姿が似合わない。

「これは失恋自殺の旅だ」

旅館の主人も同じ意見であったが、ハイヤーは既に帰ってしまい、女を追い返すすべもない。

宿の女将が応対した。

「明日はどちらへ」

「大阪へ帰ります」

「お顔の色がすぐれないようですが」

「いいえ、別段」

まさか「失恋でも」とは聞けないし、「今晩、自殺します」など答えるはずもない。

 さて、どうするか。自殺などされたら縁起でもないと主人は言うし、とにかく未然に防ぐしかない。女将と三人で相談した結果、一晩中看視することとなった。

初雪を踏んで林の中をさまよい・・・この看視は簡単だ。旅館から出ないように見張ればよい。

 次に、この宿の中でとなれば、まずは睡眠薬だろうが、大量の薬を飲むには水がいる。そうだ、水を遠ざけることだ。ご飯中はずっと付き添い、食事が済んだら一切の食器を下げ、水差しとコップは絶対に置かない。

 打ち合わせが終わるとホッとする反面、もしかしたら取り越し苦労ではないか、といった馬鹿さ気分も半分ほどあった。

 

 夕食には女将が同席した。酒の注文もあったが、味気ない酒だったのか、あまり多くを語らず食事も終わり、空のトックリが食膳と一緒に下がってきた。 

 夜の十時半ごろ、水を飲みたいと注文が来た。水を飲み終わるまで女将をつけるはずだったのだが、あいにく水を運んだのは旅館の婆さんだった。

 婆さんは、水を届けて女と話を始めた。風土のこと、御岳信者のこと、姉妹や親のことなど話が随分とはずんだようだ。お土産の話まで出て、婆さんにはすっかり親孝行の娘に見えたらしい。

「この土地のお土産は何がよいでしょう」

「明日家に帰るのであれば、木曽菜の漬物を持ってゆきなさい。お母さんが喜びますよ」

「ハイ、御嶽山の雪の話もよいお土産です」

「今晩はもう遅いからお休みなさい」

「ハイ、では休ませていただきます」

つまり、婆さんは、すっかり安心しきって、水差しとコップを置いたまま下がってしまったのである。

 

夜十二時近くである。

 廊下をつたわって、太い大きなイビキが聞こえてくる。男のものでもなく、女のものでもない、異様なイビキである。

 おかしい、あの女の部屋だ。直ぐに女中を呼び、女の部屋に入れたが全然、起きないという。女中に頼まれ、やむを得ず私が女の部屋に入ることとなった。

 きれいな寝姿である。晴着は丁寧に寝床の横にたたまれ、白い長襦袢を着て深い眠りについている。この寝姿からこのイビキ、想像出来ないことである。

呼んでみた、ゆすってみた、とうとう頬を引っぱたいたが全く反応がない。相変わらずの深い眠りと大きなイビキ。

「しまった!」

「やられた!」

つまり婆さんが騙されたのである。婆さんが引き下がった後、水差しに残った水で薬を飲み、そのまま寝込んだのである。

 

「もしもし、駐在さん・・・」

こちらの名前を名乗らぬうちに、

「管理官からの夜中の電話はろくなことがないが、今度は何かね」

「いや済まん。今度は営林署ではないのだ。五合目の旅館で今・・・」

「男かい? 女かい?」

「二十五、六のきれいな婦人だ」

「女か、じゃ出かけよう」

「男ならこちらで始末させるつもりか? 医者も連れてきてくれ」 

「夜中に医者を起こすのも、管理官の十八番だ」

という次第で、駐在さんと医者と看護婦がこの宿に着いたのは夜中の一時を回っていた。

そして、とうとう私まで、女の胃洗浄に付きあわされてしまった。



翌朝、女を病院に移すこととなった。

 たたんだ着物の中から、「ブロバリン」のビンが転がり出てきた。

 駐在さんの背中におぶさって旅館の階段を下るとき、女のきれいな両足が、バタンコッン、バタンコッンと階段を引きづりながら叩いた。

力の抜けた女の身体は、駐在さんの肩にはさぞや重かったようだ。

 

玄関で女を見ておかしいと思い、看視をしようという判断まではよかったが、看視の具体策で失敗した。婆さんも、コロリと騙されたと残念がっていた。

女は小さな声で「スイマセン」と、ただ一言残して病院へ向かった。

 

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