第5章 女性から 第25話「主婦の随想『十二年のくらし』」
「お父さん、もう土岐のやまには、どこにも仕事をするところがないの?」
「うん」
「じゃあ、土岐はすっかり緑になってしまったのね」
「うん、そうらしいな」
「それじゃ、いままで現場で働いていた人たちは、これからどうなさるの?」
「・・・」
これは、役所の仕事をあまり話したがらない夫と私の会話で、いつも最後は夫のだんまりで打ち切られてしまいます。
夫は、土岐治山事業所に入って十八年もの長い間、転勤を知らずに治山の仕事に携わってきました。私はそのうちの十二年間を共に暮らしてきた訳です。
煙たなびく土岐市に最初に下り立った時、一番賑やかな駅前通りでは陶器の姿を見ることが出来ませんでしたが、街外れに一歩出れば、まだまだ使えそうな茶碗や湯飲み、皿などが至るところに捨てられており、土岐市が陶器の街であることを証明していました。
目を少し上に向けますと、冬枯れの山々は林立する煙突のけむりのせいか、くすんだ色の木々は薄汚れて見えました。ほうぼうでむき出しになった山肌は、陶土を掘った跡なのでしょうか荒れ果て、見るからに殺風景な様相で、里山の美しい緑を懐かしく思ったものです。
役所のことは何も知らない私でしたが、昭和七年に始まった土岐の民有林直轄事業もいよいよ終了し、治山事業所も閉鎖されるとの噂が少しずつ入ってくるようになりました。
毎年三月になると、一人ふたりと退職されたり転勤されたりして、今度は我が家の番ではないかと、転勤の経験のない私どもは、大きな不安と小さな期待とが入り混じった複雑な気持ちで過ごしてきました。
主に山の仕事をする夫は、役所の机に向かっているより、体はくたびれるが現場に行った方が良いと、毎日、オートバイを走らせてきましたが、昨年の暮れにはとうとう現場も解散してしまい、山の仕事もなくなりました。
そして明けて昭和四十五年、土岐で生まれ育った子供たちも、小学四年生と一年生になりました。長いようで短かった十二年間の土岐の暮らしも、三月には終止符が打たれることとなった訳ですが、今、あらためて山を仰いでみますと、私が初めて土岐に立った時の荒れ果てた山からは想像も出来ないほど、立派に緑豊かな山へと成長しました。
四季折々の変化、朝夕の山の輝きは私たちの生活をうるおし、疲れた心をいやしてくれます。この山々が、緑の苗木を植え、育ててきた数多くの陰の人たちの労働のたまものであるということを、私たちは忘れてはならないと思います。また、その一員として、十八年もの長い間、地道に山を治め、勤め上げた我が夫を誇らしく思い、尊敬している私です。
次の転勤地がどこになるか、今は分かりませんが、どこに行っても夫が精を出して働けるように、また、家族がいつも健康でいられるようにと気を配り、質素であっても明るく楽しい家庭を築くことが、これからの私の役目であり、務めであると思っています。