昭和40年代の営林局機関誌から選んだ「名作50話」

このブログは、昭和40年代に全国の営林局が発行した機関誌の中から、現場での苦労話や楽しい出来事、懐かしい思い出話などを選りすぐり編纂したものです。

第4章 仕事と趣味 第21話「スポーツ王国 青森林友」

 青森営林局が「青森林友」の名の下にスポーツ各界に目覚ましい活躍を遂げたのは、昭和初期から太平洋戦争が起こった翌年の昭和一七年までである。スポーツ王国を誇った青森林友も、太平洋戦争で息の根を止められた。

 もっとも、戦後、野球部やスキー部はいち早く復活して活躍を見せたが、戦前の盛況さに比すべくもなかった。その後は時流の変遷に伴って衰退を重ね、硬式野球部は昭和四十年に解散し、名門スキー部も逐年弱体化し、往年の面影はない。

 戦後、新設され、一時強大を誇った排球部も今は声もなく、陸上競技部が駅伝等でわずかに気を吐いている程度である。(陸上競技部は、初出場の駅伝大会で、「ゴールしたらもう閉会式が終わっていた」という、うそのようなエピソードを持ちながら、秋田の同和鉱業とともに東北の駅伝黄金時代を築いている)

 

青森林友の黄金時代。そのトップを切ったのは卓球部である。

 昭和四年、北日本卓球大会で優勝して周囲をアッと言わせた。そして、翌年には、村林紀八郎選手が全日本卓球大会と極東選手権でアレヨアレヨという間に優勝し、日本一と東洋一となった。それから十年間は、沢田、加賀谷、山中らの名選手を輩出して常勝不敗の卓球王国を誇った。

 

次に台頭したのがスキー部である。

 昭和六年、全日本スキー選手権のジャンプ競技において、山田勝己選手が二位となり、レークプラシッド冬季オリンピックへの出場が決まった。林友選手のオリンピック出場第一号である。

 また、昭和十一年には山田伸三、山田銀蔵の両選手が、日本代表としてドイツのガルミッシュ、パルテンキルヘンで開催されたオリンピックに出場した。

 その他、全日本をはじめ、各種スキー大会のあるところ、林友スキー部の戦績は枚挙にいとまがない。

 余談だが、最近、一杯機嫌のだみ声で唄われている「シーハイル」の歌は、当時の、林友スキー部応援団の愛唱歌である。

 

 しかし、青森林友各部の中で、何といっても一番の人気を集め、華やかな存在だったのは野球部である。

 昭和五年、棒葉局長が出現して以来、スキー部とともに野球部が強化されたことは周知のとおりである。この棒葉道場でしごかれた野球部の黄金時代は、昭和八年に専用の青森球場が完成した時に開花する。

 当時、北辺に「青森林友あり」との令名は全国に知れ渡っており、渡道する大学や社会人チームは、往復のいずれか青森球場に立ち寄り、林友チームと一戦を交えるのが通例となっていた。

 不遜にも田舎チームなどと侮って対戦しようものなら、林友の猛襲にあってほうほうのていで退散したものである。

 戦前十年間の野球部黄金時代にあって、特に強かったのは昭和十年と昭和十四年である。小田野柏投手と高瀬忠一投手の二大投手が健在しており、「名投手あるところに勝利あり」の金言どおり、どちらも素晴らしいチームだった。戦績から見ても、昭和十四年には苦節十年、都市対抗東北代表として晴れの後楽園に出場したのだから、強いことは間違いない。

 当時の選手は、街を歩いていても、現在のプロ野球の選手並みに人気があったという。

 

 柔道、剣道、弓道のいわゆる武道部の活動も特筆に値する。

 剣道部の黄金時代は昭和八年から十八年までであったが、これは、天才的剣士の小笠原二郎を迎えたことと、全国中等学校剣道界の常勝名門校である小午田農林学校から全国一流の選手達が続々と入局したことによる。

小笠原二郎と言っても、戦後の人たちには未知の名であろう。だが、戦前の人たちは、武道者最高の名誉である皇居内済寧館の展覧時代に出場し、準決勝で敗れたものの新聞、雑誌等で賞賛された当時の人気者である小笠原名人の名は忘れてはいない。小笠原氏は明治四十二年に大館市で生まれ、盛岡高農を経て、昭和七年に青森局に入っては後進の指導に当たった。

 時局の影響もあり、昭和十二年に農林省主催の全国剣道大会が開催された。営林局のみならず、各下部官庁が参加した盛大な大会であったが、同年は準優勝、翌十三年は優勝し、今更ながら青森林友の強さを全国に知らしめることとなった。

 昭和十八年。戦雲いよいよ急を告げる頃のこの大会は、選手の入営も時間の問題となっていた。

 下馬評では優勝の呼び声が高かった林友剣道部は、着京早々、警視庁道場で猛稽古を行った。そして、又とない機会だからと、警視庁の四級陣と練習試合をしたところ、結果は見事な快勝に終わり、警視庁の猛者連中を驚かせた。

 ところが、それで止めれば良かったのに、更に五級陣(警視庁代表チーム)に練習試合をお願いしたのである。さすがに相手は音に聞こえる警察界きっての最強チーム。青森の警察対抗とは訳が違いコテンコテンに打ちのめされた。

 そして、こうした過度の練習による疲労のせいか、本番の全国大会では優勝どころか三回戦で敗れてしまい、最後の全国大会は誠に痛恨の結果となってしまった。警視庁との練習試合で発揮した実力の半分しか、本番では力を出せなかったのである。

 

弓道部は、当時、営林局の文書係に県下最高権威の沼田末吉師範がいたので、その指導で幾多の名選手を輩出し、各大会で活躍した。短気で有名だった当時の局利用課長の佐藤毅六さんも弓道の大家であった。どんなに機嫌の悪いときでも、弓の話をするとたちまち上機嫌となるので、「弓道の本を買って勉強する業者が増えた」といった伝説が未だに残されている。

 

 柔道部が正式な部として認められたのは昭和十三年で、林友各部の中では新参者である。

 しかしながら、武道の大本山である日本武徳会が支部単位で毎年開催する武道大会には、剣道、弓道の両部と仲良く帯同し、各地の大会を出場して回った。

 全国の営林局の中で、柔道部を作り、これほど対外的に目覚ましい活躍を遂げたのは、もうどこにもない。

 青森林友柔道部こそ、全国営林局での最初にして最後の柔道チームであった。

 

 強大を誇ったこのスポーツ大国も、やがて崩壊する日がやってきた。強健な体躯と闘志満々の林友各部の選手たちは、精強勇敢なる兵士として召集され、職場を去った。そして、紅顔の若者たちは、いたましくも次々と戦野に散ったのである。

 また、我々の職場も変わった。戦後の官庁スポーツのあり方が、選手制度の廃止など、その制度と共に大きく様変わりした。さらに、年中行事化した賃上げ闘争とは対照的に、当局も若い連中も次第に競技スポーツから遠のいていった。

職場の志気が沈滞すればするほど、スポーツの果たす潤滑油、志気回復としての役割は大きい。

 こうした意味で、不況産業の炭坑の町から出てきた三池高校が、苦戦の連続の末に手にした深紅の優勝旗は更に価値あるものであり、同じ仲間、同じ条件の町や職場の灯りとなり、一つの指針となることを祈って止まない。

 

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