第4章 仕事と趣味 第22話「熊撃ち」
「旦那さん、熊狩りにいかネスか。奧の部落の人方が是非にって」
と前の日の昼下がりに声がかかる。
興味津々である。
早速鉛の実弾を用意し、金かんじき、防寒着等の準備を始める。
翌朝五時、快晴。
頑丈な体つきの若者に交じって、部落の長の命令のもと出発。
十五、六人いるだろうか。しばらく平地を歩いて、いよいよ山中に入る。雪上は氷の粒が堅く固まり、金かんじきでも甘く歩くと滑る。朝日を背に急斜地を一歩一歩踏み出しながら、登っては下り、また登る。
途中で勢子とブッパに分かれる。勢子とは熊を山麓から上へと追い上げる人、ブッパとは山頂で熊を待ちかまて撃つ射撃手のことである。
目的地としていた平らな峯に着いたのは昼近く。握り飯と大根の味噌漬けを頬張ると、早速準備にかかる。
高い話し声は禁物。必要なこと以外口をきかず、言葉を交わす時は低音。
「兎とりと同じで、ちょっとでも音がしたり、体を動かしたりすると熊は逃げていく。ブッパは決められた位置に立ったら動かないように」
と部落の長から注意を受けている。
勢子は巻狩り開始の位置にそれぞれ着いただろうか。時刻は午後一時と決められている。不安と興味が交錯し、落ち着かないまま時が過ぎていく。
やがて「ホーウッホーウッ」と遠く下の方から一斉に声がかかる。戦闘開始である。緊張感がサーッと張りつめる。膝撃ちの姿勢で銃を構え下を見つめる。
三、四十分もたっただろうか、遥か下の方に黒点が動くのを発見。熊が巻に入ったのである。
望遠鏡の焦点を合わせて見ると、頭を左右に振って雪氷を真っ直ぐよじ登ってくる。頭を振るたびに白い月の輪がチラチラと見える。
月の輪を上から狙い撃ちにすれば心臓を射抜き、一発だという。
相当近くなるまで撃たないとは聞いていたが、高まる鼓動とは別に、ブッパは沈着そのもの。眼だけが、頭をゆっくり左右に振りながら上がりつつある熊に注がれる。
小さな黒点がみるみる大きくなる。
突然、沈黙を破って銃声が一発、続けて右の方のブッパから一斉に火が吹く。
部落の長も撃ちながら一言。
「早かった」
一、二回回転しながら落ちていった熊が、再び起き上がり、歯をむき出してものすごい勢いで走り出す。銃弾が撃たれる度に雪煙が舞い飛ぶ。
やがて横ざまに熊が転落し始める。
大きい図体が雪氷を赤く染め、白い雪を黒毛にまぶしながら転がるさまはとても兎どころではない。
動かない。
一本の杖を雪氷に立てて急斜面を滑り下りる。大きい熊だ。熊の脚のひらを計って七寸あるという。なめせば七尺の熊の皮となる。
沢で薪を集めて火をつけ一服。その後、マキリ包丁で直ちに開腹剥皮。手足がそれぞれ切断され梱包される。各人が分担して運搬するためである。胆はこの猟の長に配られ、肉は平等に分配される。薄暗くなる頃下山し、部落の長の家にたどり着いたのは夜八時近くであった。
興奮がさめ、地酒を口にした時は、いろりの火のぬくもりと安堵感のために私は深い眠りに襲われた。引き続く祝宴のにぎやかな声や音も、遥か遠くに聞こえるようになった。
第4章 仕事と趣味 第21話「スポーツ王国 青森林友」
青森営林局が「青森林友」の名の下にスポーツ各界に目覚ましい活躍を遂げたのは、昭和初期から太平洋戦争が起こった翌年の昭和一七年までである。スポーツ王国を誇った青森林友も、太平洋戦争で息の根を止められた。
もっとも、戦後、野球部やスキー部はいち早く復活して活躍を見せたが、戦前の盛況さに比すべくもなかった。その後は時流の変遷に伴って衰退を重ね、硬式野球部は昭和四十年に解散し、名門スキー部も逐年弱体化し、往年の面影はない。
戦後、新設され、一時強大を誇った排球部も今は声もなく、陸上競技部が駅伝等でわずかに気を吐いている程度である。(陸上競技部は、初出場の駅伝大会で、「ゴールしたらもう閉会式が終わっていた」という、うそのようなエピソードを持ちながら、秋田の同和鉱業とともに東北の駅伝黄金時代を築いている)
青森林友の黄金時代。そのトップを切ったのは卓球部である。
昭和四年、北日本卓球大会で優勝して周囲をアッと言わせた。そして、翌年には、村林紀八郎選手が全日本卓球大会と極東選手権でアレヨアレヨという間に優勝し、日本一と東洋一となった。それから十年間は、沢田、加賀谷、山中らの名選手を輩出して常勝不敗の卓球王国を誇った。
次に台頭したのがスキー部である。
昭和六年、全日本スキー選手権のジャンプ競技において、山田勝己選手が二位となり、レークプラシッドの冬季オリンピックへの出場が決まった。林友選手のオリンピック出場第一号である。
また、昭和十一年には山田伸三、山田銀蔵の両選手が、日本代表としてドイツのガルミッシュ、パルテンキルヘンで開催されたオリンピックに出場した。
その他、全日本をはじめ、各種スキー大会のあるところ、林友スキー部の戦績は枚挙にいとまがない。
余談だが、最近、一杯機嫌のだみ声で唄われている「シーハイル」の歌は、当時の、林友スキー部応援団の愛唱歌である。
しかし、青森林友各部の中で、何といっても一番の人気を集め、華やかな存在だったのは野球部である。
昭和五年、棒葉局長が出現して以来、スキー部とともに野球部が強化されたことは周知のとおりである。この棒葉道場でしごかれた野球部の黄金時代は、昭和八年に専用の青森球場が完成した時に開花する。
当時、北辺に「青森林友あり」との令名は全国に知れ渡っており、渡道する大学や社会人チームは、往復のいずれか青森球場に立ち寄り、林友チームと一戦を交えるのが通例となっていた。
不遜にも田舎チームなどと侮って対戦しようものなら、林友の猛襲にあってほうほうのていで退散したものである。
戦前十年間の野球部黄金時代にあって、特に強かったのは昭和十年と昭和十四年である。小田野柏投手と高瀬忠一投手の二大投手が健在しており、「名投手あるところに勝利あり」の金言どおり、どちらも素晴らしいチームだった。戦績から見ても、昭和十四年には苦節十年、都市対抗東北代表として晴れの後楽園に出場したのだから、強いことは間違いない。
当時の選手は、街を歩いていても、現在のプロ野球の選手並みに人気があったという。
柔道、剣道、弓道のいわゆる武道部の活動も特筆に値する。
剣道部の黄金時代は昭和八年から十八年までであったが、これは、天才的剣士の小笠原二郎を迎えたことと、全国中等学校剣道界の常勝名門校である小午田農林学校から全国一流の選手達が続々と入局したことによる。
小笠原二郎と言っても、戦後の人たちには未知の名であろう。だが、戦前の人たちは、武道者最高の名誉である皇居内済寧館の展覧時代に出場し、準決勝で敗れたものの新聞、雑誌等で賞賛された当時の人気者である小笠原名人の名は忘れてはいない。小笠原氏は明治四十二年に大館市で生まれ、盛岡高農を経て、昭和七年に青森局に入っては後進の指導に当たった。
時局の影響もあり、昭和十二年に農林省主催の全国剣道大会が開催された。営林局のみならず、各下部官庁が参加した盛大な大会であったが、同年は準優勝、翌十三年は優勝し、今更ながら青森林友の強さを全国に知らしめることとなった。
昭和十八年。戦雲いよいよ急を告げる頃のこの大会は、選手の入営も時間の問題となっていた。
下馬評では優勝の呼び声が高かった林友剣道部は、着京早々、警視庁道場で猛稽古を行った。そして、又とない機会だからと、警視庁の四級陣と練習試合をしたところ、結果は見事な快勝に終わり、警視庁の猛者連中を驚かせた。
ところが、それで止めれば良かったのに、更に五級陣(警視庁代表チーム)に練習試合をお願いしたのである。さすがに相手は音に聞こえる警察界きっての最強チーム。青森の警察対抗とは訳が違いコテンコテンに打ちのめされた。
そして、こうした過度の練習による疲労のせいか、本番の全国大会では優勝どころか三回戦で敗れてしまい、最後の全国大会は誠に痛恨の結果となってしまった。警視庁との練習試合で発揮した実力の半分しか、本番では力を出せなかったのである。
弓道部は、当時、営林局の文書係に県下最高権威の沼田末吉師範がいたので、その指導で幾多の名選手を輩出し、各大会で活躍した。短気で有名だった当時の局利用課長の佐藤毅六さんも弓道の大家であった。どんなに機嫌の悪いときでも、弓の話をするとたちまち上機嫌となるので、「弓道の本を買って勉強する業者が増えた」といった伝説が未だに残されている。
柔道部が正式な部として認められたのは昭和十三年で、林友各部の中では新参者である。
しかしながら、武道の大本山である日本武徳会が支部単位で毎年開催する武道大会には、剣道、弓道の両部と仲良く帯同し、各地の大会を出場して回った。
全国の営林局の中で、柔道部を作り、これほど対外的に目覚ましい活躍を遂げたのは、もうどこにもない。
青森林友柔道部こそ、全国営林局での最初にして最後の柔道チームであった。
強大を誇ったこのスポーツ大国も、やがて崩壊する日がやってきた。強健な体躯と闘志満々の林友各部の選手たちは、精強勇敢なる兵士として召集され、職場を去った。そして、紅顔の若者たちは、いたましくも次々と戦野に散ったのである。
また、我々の職場も変わった。戦後の官庁スポーツのあり方が、選手制度の廃止など、その制度と共に大きく様変わりした。さらに、年中行事化した賃上げ闘争とは対照的に、当局も若い連中も次第に競技スポーツから遠のいていった。
職場の志気が沈滞すればするほど、スポーツの果たす潤滑油、志気回復としての役割は大きい。
こうした意味で、不況産業の炭坑の町から出てきた三池高校が、苦戦の連続の末に手にした深紅の優勝旗は更に価値あるものであり、同じ仲間、同じ条件の町や職場の灯りとなり、一つの指針となることを祈って止まない。
第3章 営林署から 第20話「ある見送り」
私が現場にいた時、一人の署長が退職した。誠実で責任感が強く、本当に人徳豊かな人物であっただけに、突然の退職は惜しまれるところがあった。
いよいよ任地を去る日に、見送りに行くべく単車の準備をしていると苗木が送られてきた。時間が差し迫っていたが、仕方がないので山元へ行き検収し、仮植の指示をした後、駅へと単車を飛ばした。
やっとの思いで駅にすべり込むと、既に向こうの上り線のホームから大勢の人たちが出口に向かっている。汽車は発車した後であった。わずかの違いで見送れずしょげきっていると、向こうのホームからTさんがきょろきょろしながら出てきた。
「やあ、一寸の違いで遅れてしまって」
バツが悪そうに話す私を見て、彼は
「いや、僕もこの汽車だと聞いて見送りに来たが、署長は乗らなかったよ。これから署に電話して、時刻を確かめてみるところだ」
彼はそういって駅前の電話ボックスに入った。
「次の汽車に変更になったそうだ」
そう言って駅の待合室に入り、時刻表を見て発車時間を確かめた。
「これならまだ二時間近く時間があるな」
「うん、かなり長いな」
冬の寒さが地面から伝わり、そのうえ単車で走ってきたので、体は芯まで冷え切っている。
二人はどちらから誘うでもなく、待合室が良く見える、駅の真向かいの店に入った。
火のつけられたおでんの鍋から、暖かそうな湯気が盛んに出ている。
とにかく特効薬で軽くやろうと、大きな声で熱燗を頼む。奧の方から女子プロレスラーのような体格をした娘がのっそりと運んできた。コップを二つ出し、酒を注ぐとまた奧の方に消えていく。酒が腹の底にジーンとしみ込むと、寒い山道をほこりを食いながら走ったことなど全て忘れてしまい、腰を据えて酒をぐいとあおる。
時々顔を出す娘をおだてたり、ひやかしたりしているうちに、いつしか時間が過ぎていく。
「署長はおそらく、三十分前には駅に着くだろう。その前に店を出ようや」
彼は古ぼけた柱時計に視線を合わせながら、落ち着いた口調で言った。
「それならぼつぼつ行った方がよいのじゃないかね」
「なに、まだ大丈夫だよ」
落ち着きはらったものである。コップ酒も既に三杯を超えている。
「そろそろ署員が来ておるんじゃないかね」
私は妙に気になって駅を見た。
そして、その瞬間、ガンと一撃を浴びたような衝撃を受けた。心地よい酔いもいっぺんに吹き飛んでしまった。汽車は見送りの人々を残して発車し、最後尾の客車が、かすか遠くに目にとまったのである。
「Tさん、今、上りの汽車が出たが、あれじゃなかったのかね」
「大丈夫、時刻表を確かめてあるから、まだ出ることはないさ」
Tさんの声を聞きながら駅の出口にはき出される人の顔を見ていると、署員がぞくぞくと出て来るではないか。
「Tさんよ、こりゃおおごとぞな。見送りの署員が駅から出てきたがな」
彼はびっくり仰天した。そして駅へ走り時刻表を確かめてみると、これは大失敗、下り列車の時刻を見ていたのだ。だが、慌てふためいても後の祭り。汽車はもう遥か高松をめざして突っ走っている。
あれほど忙しい思いをして駅まで急ぎながら、縄のれん一つへだてた場所に座っていて、見送りにはぐれ、大失敗をやったのである。
第3章 営林署から 第19話「奥日光のシカ」
私は、国有林の仕事を通じて、妙に動物たちとつきあうことが多かった。
シカとイタチとウシ。そして、これは間接的ではあるが国際保護鳥のトキである。
シカは狩猟用として、イタチは野ネズミ退治用として、ウシは肉用牛として、それぞれの増殖に携わり、また、トキの自然繁殖にもかかわった。
色々と苦労もしたが、今ではこれらの動物が懐かしく思い出される。
奥日光の男体山の裏側には、我が国唯一のシカの国営猟区がある。大型の獣を撃てる猟区は魅力的であり、入猟者は政財界の著名人も多かった。三橋達也など映画スターの名も耳にしたものである。
この猟区の経営は営林署が行っており、猟区の主任は日光担当区である。猟区内のシカの推定生息数は五百頭とも七百頭とも言われていた。毎年、冬期の土日が猟の日と定められており、平均して四十人の狩猟家が入山し、一冬で約五十頭が獲物となっていた。
五千ヘクタールの猟区は十数箇所に区画され、前日の目撃情報により「明日の猟場は第何号にしよう」と作戦会議が開かれる。当日は十数名の勢子を連れてお客を猟場に案内し、勢子が追い出したシカを客が一列に並んで一斉に撃つ。
普通、一回の猟で一、二頭は仕留めていたものが、昭和三十六年頃からパタリと獲れなくなった。一冬で十頭にも満たない状況となってしまったのである。
東京からわざわざ泊まり込みで来るのに、シカを撃つどころか、姿さえ見ることができないため、林野庁でも問題となった。
この猟区の奧には栃木、群馬、福島の県境があり、人跡未踏の深山が綿々と連なる。また、猟区は東南に向き日当たりが良く、ナラをはじめとする広葉樹も多いことから、シカの生息場所としては理想的である。
ところが、営林署の伐採が進み、人工林が増えていくにつれ、ドングリ等の餌とシカの隠れ場がなくなった。
いきおい、シカは奥地へと逃げていき、猟区にはすっかり現れなくなってしまったのである。
早速、林業試験場の専門家を現地に呼び、対策を練ってもらった。
猟区内の伐採は縮小し、伐採区域は連続せず、シカが隠れることが出来るよう保残帯を設ける。また、沢筋も水飲み場として伐採せず保残する。シカの好む牧草を林内に栽培する。時折食塩を林内に置き、健康増進を図る等々。
営林署はこの方針に従い対策を講じたというが、それから十年、先日、偶然ながら日光の猟区について話を聞く機会があり、かつての対策が実を結んでシカが増えつつあるとの話を聞いては、心中快哉を叫んだものである。
シカに関して我々を悩ましたものは、野犬と密猟者である。これらにより失われるシカの数は、狩猟によるものより多いとの推定さえあった。
野犬はもとは捨て犬であり、人を見れば遁走するが、時には牙を剥くこともある凶暴なケモノである。
シカを追う野犬は一匹ではなく、チームワークを組んでいる。三、四匹が追い出しにかかり、一、二匹がこれを待ち伏せして倒し、皆でむさぼり喰う。
犬に追われたシカがたまりかねて中禅寺湖に飛び込み、溺死することも毎年一、二回あった
時折、ワナを仕掛けては処分したが、実にすばしこいため、なかなか退治出来ずに苦慮したものである。
野犬と並ぶ悪者は密猟者である。
猟期以外に銃声が聞こえた場合、それはたいがい密猟者の仕業であるが、山は深く険しいことから彼らを林内で捜し出すのは至難の業である。
また、密猟者は、一週間ぐらいは平気で野宿し、夜陰に乗じて逃亡する。やり方も巧妙であり、シカを撃つ者と肉や皮を運ぶ者が分業制をとるため、簡単には捕まらない。
私も、山道を足早に下りてくる屈強な二人連れに出会ったことがあるが、殺伐な面構えといい、用意周到な支度といいタダ者ではなかった。
問い質しても山菜採りと言い張るが、司法警察権を発動してリュックの中を見たところ、血の匂いのする刃渡り一尺以上の山刀が出てきた。彼らは、下山時に鉄砲を山中に隠すのである。直ちに警察に連絡して住居を調べたところ、予期したとおり多数のシカ皮と角が出てきた。
この時は、こちらも人数が多かったので心強かったが、逆の場合は、こちら側が身の危険を感じることもある。
狩猟と言えども、獲るだけでは駄目である。増やすことも考えねば元も子もなくしてしまう。狩猟ブームは高まる一方と言われており、国有林もこれに本格的に取り組む日が近いのではないか。
第3章 営林署から 第18話「もしもし、ここの渓谷の植物は採ってはいけませんよ」
観光地を訪れる登山客、散策者は十人十色、千差万別である。
登山道にしゃがみ込み、可憐な草花をじっくり眺めては立ち去るマナーの良い人もいれば、ビニール袋を取り出しては「ちょっと失敬」と持ち去ろうとする人もいる。
本格的な盗掘行為はさておき、国有林野内を歩いていて、偶然、こうしたマナー違反を発見した場合、注意せざるを得ないのが担当区主任の役柄であるが、相手とのことを考えると、いささか気の重いところもある。特に、こちらが独身で相手が妙齢の御婦人となると、対応も一筋縄ではいかない。
(泣き落とし型)
「もしもし、ここの渓谷の植物は採ってはいけませんよ」
「すみません、知らなかったもので・・・」
「おかしいですね。あちこちに大きな標識があるはずですよ。お母さんがそんなことをしてもらっては困ります」
「どうも済みません。子供が欲しがったものですから」
「二度としないで下さいね」
「本当に済みません・・・。子供がどうしてもと言うものですから」
「・・・」
子供を前面に出し、やんわり来られると、なかなか次の言葉が出てこない。
(喧嘩腰型)
「もしもし、ここの渓谷の植物は採ってはいけませんよ」
「あら、一本ぐらい、いいじゃないの」
「あなた、一本ぐらいと言いますけどね、この山には年間二十万人の人たちが訪れるんですよ。そのうち半分の人がもし、あなたのように一本ぐらい採ったとしたら、一年に十万本もの植物がなくなるんですよ。よく考えて下さい」
「ここはあなたの山ではなくて、国民の山でしょう。ケチケチしないでよ」
「それはそうです。国民の山です。しかし、あなただけの山でもないんです。国民全体の財産です」
「いいわ、返せばいいんでしょう」
「そうよ、この人に、返してしまいましょう」
多勢に無勢。しかし、ここで負けてはいられない。
「返す、返さないの問題じゃなく、モラルの問題です」
「あなた、若いのに割合くどいのね。それじゃ結婚出来ないわよ」
「・・・」
そう言われては、もはや返す言葉がない。草花を黙って受け取り、あとは、ご婦人方がその場を離れてくれるのをひたすら待つしかない。残されたのは、手の中にある無造作に置かれた草花と、言いようもない空しさばかり。
(お色気型)
「もしもし、ここの渓谷の植物は採ってはいけませんよ」
「あら、すみません。でもこの草花、とっても可愛らしいんですもの」
上目遣いにニッコリして、もう一言。
「この花なんというのかしら、ご存じ?」
「ああ、これですか、ウチワダイモンジソウですよ」
「よくご存じね。もう少し欲しいわ」
「それなら向こうの岸壁に多いですよ。・・・あ、いけませんよ、これ以上採っては」
我も人の子。美人には弱い。
(高圧型)
「もしもし、ここの渓谷の植物は採ってはいけませんよ」
「こんなちっぽけな木の五、六本いいでしょう。大人げない。あなた、一体何者? 」
「私ですか。営林署の職員ですよ」
「営林署? そんなの聞いたことないわね。何やってるの? 」
「農林省の出先機関で、国有林の管理や経営をやっています。この遊歩道などの施設の管理も我々が行っています。ですから・・・」
無論、当方の説明など聞いてはいない。胡散臭い目でにらみつけながら
「今頃、外材だって入るのに、営林署なんてまだあるの。あなた、上手いこと言うけど、つまり山師でしょう」
やれやれ、山師とまで言われては・・・
こうしたマナー知らずのハイカーが、ひとたび下界に降りると、今度は攻守ところを変えて「自然破壊反対」と叫ぶのではないかと、いささか心配になってくる。
管内に観光地があると、人には「いいですね」とよく言われるが、他人には話せない観光地ならではの苦労もまた、別にあるのである。
第3章 営林署から 第17話「山火事」
四月も下旬に入り、萌黄色の若葉が山々を包み始めると、山火事の危険は一応薄らぐ。
瀬戸内地方の山火事は、三月をピークに一月から三月にかけて集中的に発生しており、四月に入ると急激に減少する。
しかしながら、昭和四十六年四月二十七日昼過ぎ、「大積山付近で山火事発生」との一報が西条営林署に入った。
詳細が分からないまま、まずは署の先発隊五名が現地へと出発する。
第二班以下は待機の姿勢で、そのまま業務を行う。
午後二時半、先発隊から連絡が入った。
「火はすでに大積山国有林に入っており、猛烈な勢いで延焼中である。第二班以下は至急出動されたい」
その声色には普段と違ったただならぬものが感じられた。
こうして営林署のみならず、消防署や消防団などの関係機関から人員が続々と繰り出され、以降、二十時間余にわたる消火活動が開始された。
火は消火隊の隙をついて、ある時は緩く、ある時は急に、また場合によっては爆発的な動きを見せる。現地の地形、林相、気象条件によって火の姿は刻々と変化する。
例えば、谷から尾根筋に吹き上げる火は、途中でどのような防火線をつくっても阻止出来ないほど凄まじいものである。
また、火は、可燃物の乾燥度合によっては驚くほど行動範囲を広げ、動きも敏速となる。
呉市消防局員十八名のいたましい事故は、こうした状況の中で起こった。
標高六百メートルの尾根から東南にのびる斜面は長大であり、そのはるか下方で火は燃えていた。あたりは伐採跡地であり、伐り残しの灌木と散乱した枝条があるだけで、遮るものもない。斜面のすぐ東隣りには細長い幼齢林の帯をはさんでヒノキの壮齢林がひろがっている。
消防局員十八名は、このヒノキ林に火が燃え移るのを防ぐため、その手前で防火線を切ろうとしていた。彼らの判断に誤りはなかったはずだ。
火ははるか数百メートルの下にあり、周辺には多くの同僚、消防団、自衛隊の各員がそれぞれ活動していた。日はまだ高い。今のうちに作業を進めなければ・・・
こうした中、現地では恐ろしい状況が進んでいた。空中湿度の極端な低下である。
二日前から広島県下には異常乾燥注意報が出されていた。午前十一時の湿度は十九%。気温の上昇とともに湿度はなお下がり続け、午後二時、呉市測候所の湿度計は十四%を記録していた。ちょうど十八名の隊員が作業地点を目指して下りかけた頃である。
一陣の突風が火を煽り立てた。
それまで下方で燃えていた火は急に勢いを増し、尾根を飛び越えざま、突如として伐開作業中の十八名の背後を襲った。
飛び火である。目撃者の話によると、全く火の見えなかった小尾根の裏側から、旋風で舞い上がった火が二~三百メートルもの上の斜面に飛び移ったという。
伐採跡地にはもろもろの可燃物が堆積している。一見なだらかに見える谷間も切り捨てられた枝条でいっぱいだ。火は獲物を得て一気に燃え上がった。雨後の湿った空気の中ではいくら燃やそうとしても火のつかない枝条であっても、空気の乾燥とともに恐ろしい爆発物へと変わる。
見通しのきく、燃えるものもないような斜面が、実は大きな誤算を招いた。立木があれば、いくら火の勢いが強くても燃え上がるスピードにはブレーキがかかる。火に対する生きた木の抵抗があるからだ。この場合、その助けもなかった。火は一瞬にして十八名の隊員を取り囲み、その退路を断った。この間わずか数十秒の出来事である。やがて火はジェット機のごう音を思わせる傲然たるうなりを上げ、十八名を呑んだまま一気に六百メートルの斜面を駆け登った。
山林火災史上、例をみない惨事はこうして起こったのである。
爆発的に燃え上がる火も、ひとたび尾根を登りきれば火勢は衰える。
消火活動は、この時を狙って行うのが山火事消火の定石であり、尾根にしっかりした防火線があれば大抵の火はそこで食い止められるが、火は、人の盲点をついて襲ってくる時がある。
呉市消防局員十八名の霊に合掌しつつ、あらためて山火事の恐ろしさをお伝えする次第である。
第3章 営林署から 第16話「公売雑感」
公売会場に一歩足を踏み入れると、そこは、タバコの煙がもうもうと立ちこめる別世界。喧噪やかましく、百人を越す業者の人たちの声でざわめく。営林署の係官が札を整理し、結果を発表する直前までこの状態が続く。
「ただ今から入札結果を発表します」
会場は急に静まり、ときおり、際だって高い札の読み上げがあると「オー」という驚きの声とため息が聞こえてくる。
参加者が多く、活気があるほど入札結果は良好である。
業者は、公売にのぞむ前、公売物件を十分に下見し、各人独特の符号を使って金額を計算する。
会場の雰囲気や参加者の顔ぶれなどから、自分の計算結果を積み上げ勝負に出る。これも金利と利潤を考えてのことだから、商売とは厳しいものである。
入札金額を見ると、土木工事の場合は普通万円どまりだが、木材販売では十円単位のものを多くみかける。三百万円、五百万円といった椪でも九九〇円とつけている札がある。中には九九九円と細かく記入された札も珍しくない。椪によっては僅少の差で落札が左右されるため、公売という場での特殊な心理によるのだろう。
また、元来、木材の取引はきめ細かく行われる。七十、八十立方メートルの丸太が、筏に組まれて水門を出る時には十数口に分けられ取引されることも少なくない。
細かい神経を使う商売である故に、札に現れる金額もいきおい細かくなるようである。
椪の中には入札枚数が極端に多く、特に、上位の札が競い合い、大接戦となる場合がある。また、一方では応札数がごく僅かで、しかも一番札と二番札とがかけ離れている場合がある。
素人考えでは、接戦の勝者である落札者は気分爽快で儲けも多いのではないかと思う一方、他に応札者がいない時の落札者は何か見込み違いでもしたのかと、常連のお客ゆえにいささか同情的な気持ちになることがある。
ある時、この話を業者にしたところ、競争が激しく札の接近した椪を落札した場合は気分が良いかも知れぬが、余り儲からない。むしろ、札が離れて落札した方が儲かるという。
これは解せない。
その理由は如何なるものかと聞くと、彼氏いわく。競争の激しい椪は、誰もが欲しいが故に現物を徹底的に見て、予定一杯に額を見積もるから札も接近する。ところが、札が少ない場合、十分に見ていない人が多いため、札が飛んでいても自分さえ中身を吟味していれば、上手な買い物となり儲かるのだと言う。
商売とはそういうものかと感心はしてみたが、解ったような解らなかったような、素人の悲しさである。
国有林を退職してある事業を経営していた先輩がいわく、売掛金を回収するために何度か足を運んでは、その都度、金がないことを聞かされると気の毒になって足が遠のいてくる。
また、反対にこちらが催促されると、悲しいかな無理しても払うようになる。
結局は手許の資金が徐々に減っていく。とかく役人をやった者は正直過ぎてうまくゆかんですと。
金儲けがいかに難しいものかを、体験を通じて教えてくれた。